コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

頑張れない人

 五月を目前にして新緑の季節を予感させる強い雨が降っています。ひとしきり降った後はきっと過ごしやすいだろうと予感させる雨でもあります。雨が降ったら嫌だなと思うだけじゃなくもう少し自然を愛でることができたらなと思います。どうせ不平不満を言っても抗えるものじゃないですし。

 ようやく就職して半年が経過しようとしてきました。専らやり続けてきたことは一通り出来るようになってきたかなと慢心していたら、連日、小さいけれどもミスが続いて色々と迷惑をかけてきてしまいました。小さい会社だからか、私のような下っ端でもそれなりにやることが増えてきて毎日慌ただしく過ごしています。半年前まではこんな風に働いているなんて夢にも思いませんでしたが、仕事があるだけ有難いと思うか、なんで私がこんなことをしないといけないのかと嘆くのかは別の話として置いておきます。

 

 大きかろうが小さかろうがミスはミスであり、反省して次はしないようにとそれなりに受け止めてはいるのですが、ふと立ち返ってみると結構無理をしていたんじゃないのかなと思いました。仕事自体は誰でもできるものなのですが、単純な仕事量の多さや連日遅くまで残ってやっていると、どこかでいっぱいいっぱいで働いていてしまったのかなとも思います。元より優秀ではない私はただ我武者羅の渦中にいて、自分はそんなことを立ち返られるほどの余裕もないので、結果として些細なミスを連発してしまう。

 

 人が「無理をしている状態」っていうのは無理をしている本人が自覚していないからこそそういう状態であるのではないでしょうか。そんな無理をしてしまっている人に「大丈夫?」と声かけても本人は自覚していないから「大丈夫」としか答えないから、そんな優しさは無意味です。

「無理をする」と「頑張る・努力する」の違いっていうのは一つには、自分自身が犠牲になっているかどうか。「無理をする」と自身の健康とか思考とか、時間とかなんでもいい。注意力でも、そういった大きかろうが小さかろうが何かが犠牲になってしまっている状態だと思います。

「頑張る・努力する」というのは犠牲じゃなくて肥やしになっている状態を指していて、私や貴方は犠牲にしてまでやってしまっているのか、それとも将来の自分を見据えての肥やしを蓄えているのかいずれでしょうか。今の私はどちらかというと小さいけれども何かを犠牲にして無理をしているような実感があって、だからどこかで改めなおして、働き方自体とそれにのめり込んでいる自分との線引きをしないといけない。

 

 何かを熟すっていうのは、線引きが上手に出来ている器用さを表していて、不器用な人っていうのはそのへんの線引きが下手なんです。なぜ下手なのか?と言うと不器用だからですとしか言い様がない。線引きの仕方がわからないから線を引けないんです。線を引けないから不器用なんです。物事との距離感と言ってもいいかもしれない。その辺りを図るのができない。わかっちゃいるけどできねえんだよ。

 この辺りの線引きの仕方は器用さだけでなく、経験によってもできてくるんでしょう。元来備わっていた器用さに加えて、経験でもってそういう風に物事の分別みたいなものをつけることが出来るようになると、忙しくなったとしても一つ一つ丁寧に仕事が出来て、いわゆる出来る人みたいになれるんでしょうかね。

 

 貴方自身の周りに無理をしている人がいるのならどこかで気にかけてあげてください。今までの友人を鑑みるにそういう「無理をしている」人には女性に多いです。周りの優しい人たちがフォローやケアに入って落ち着くこともあるのですが、何かの折に爆発してしまった人も何人か見ています。一方で男性は「無理をしている」自分をなかなか認めず誰かからの施しも頑なに受けずにいて、表面的に問題が出てくる時って言うのは結構深刻な症状になって表れることもありました。

 

 「無理をする」場面というのは仕事の内容だけじゃなくて、多くはコミュニケーションの場面においても立ち現れます。どちらかというとそちらの場面で精神をすり減らしてしまうケースが多いのではないでしょうか。どんな場面で無理をしているのかなんて当人の問題であって、周りの人が立ち入ることができるのはそこではありません。話を聞くだけでもいい、というかそれしか方法はないのかもしれない。

ヴェニスの商人と資本論

 

ヴェニスの商人の資本論

ヴェニスの商人の資本論

 

  お金のことを考えるならば、どういう風に考えていかなければならないのでしょうか。こと日本においては、お金というのは触れてはならないもののように扱われている印象を受けます。特に他人の給料なんて尋ねるのは、女性の体重を聞くこと以上の無礼であります。かと言ってお金は生きていく上では目を背けてはいけないものです。どちらかと言うと禁句であるというよりも触れざる神のような存在なのかもしれません。多くの人々が存在を信じ、その恩恵を渇望するという点では神なのではないでしょうか。

農耕民族としての貨幣を鑑みるに、そして色んな人の話を聞く限りでは、地に足をつけて身の丈にあった労働の報酬として、給料を頂いていくのが日本人としてあるべき姿の、労働の対価としての、お金の考え方が強いのかもしれません。美輪明宏さんは「お給料は我慢料」 とも表現しておりました。

 確かに存在しているけれど目にみえない貨幣の動き、いわゆる資本。お金のことを考えるならば資本主義のことを考えないといけません。そしてそれを理解することはお金のこと、社会的な貨幣の存在を理解していくことなのではないかと思って学生時代に教授から課題図書として挙げられた本を再度手にとりました。教授はこのレベルの本なら大学生は読めるだろうと言っておりました。確かに書いてあることはわかりやすいのですが、私も含め昨今の学生にはいささか荷が重いものを指定したなと今では思います。

 

ー〈資本主義〉のシステムやその根底にある〈貨幣〉の逆説とはなにか。その怪物めいた謎をめぐって、シェイクスピアの喜劇を舞台に、登場人物の演ずる役廻りを読み解く表題作「ヴェニスの商人資本論」。そのほか、「パンダの親指と経済人類学」など明晰な論理と軽妙な洒脱さで展開する気鋭の経済学者による貨幣や言葉の逆説についての諸考察。(本作内容)

 

 シェイクスピアの喜劇「ヴェニスの商人」を舞台に繰り広げられるユダヤ人の高利貸し、またそれに基づく証文の存在。証文にとってかわる貨幣の存在、または約束事を資本主義に結びつけて書いてある、なかなかにユーモラスな読み物でした。

 

 資本主義に基づく考え方はユダヤ人の商売人の考えから展開したと見受けられます。資本主義の基本とは物流に伴う交換であり、その交換を円滑に進ませるために貨幣という概念が生まれた。パンの作り手と魚を扱う漁師がいたとします。彼らは互いにパンと魚を交換する。しかし片方が十分な物量を抱えている時には他方は、相手のものを必要としない。その問題を解決するために、モノに取って代わる代替品として貨幣が生まれた。その貨幣は独りでに価値をもち、流通し、あらゆる場面においてモノに取って代わる代替品として活用される。次第に貨幣自体が価値をもつようになり、それに対しての対価がモノに与えられるようになった。貨幣に対してはふわっとこんな風に理解しています。

この「ヴェニスの商人資本論」では、貨幣、利子、ヨーロッパ社会におけるユダヤ人の役割を縦横に語っていて、本作での資本主義においては「差異」という言葉が度々見かけられます。差異とは、利潤から生まれ、利潤は差異によって埋められていく。つまり利潤は差異から生まれると言うことです。

ことヨーロッパ社会の時代においては、利潤は差異から生まれるというのは遠隔地における商取引を行った際に、そこに到達するまでの時間、空間的な差を表しています。船でそこに到達するにはどれだけ時間がかかるか、によってモノ自体に差異が生まれる。生じた差異に貨幣の価値を上乗せし、利潤を得る。と意味論的循環を行う関係です。

改めてこの本を読み、今になって大学時代の講義の内容がすっと理解できるようになりました。

 

貨幣を考える上でユダヤ人は然り、キリスト教の考え方など様々な要因が絡んできます。もし、何がしかの方法で利潤を得ようとするのなら、元来貨幣が扱われていた方法を考えないといけないのかもしれません。

 FX取引などで見られるように、円の価値とドルの価値では若干の差異があります。その差異に乗っかって利益を得ることが出来て、このように貨幣自体が差異をもっているということは、それ自体に利潤が秘められているとも言えますね。ひょっとするとお金を稼ぐ方法というのは・・・。という風に何かひらめきそうでしたが、今の私には若干届かない領域でした。今後貨幣に取り巻かれた資本主義社会で合理的に生きていこうと思うのなら、この辺りの問題は考え続けていかないとなと思います。

頑張りや努力だけで貨幣を得ることが出来るのならいいのですが、そうではなく、「仕組み」のようなものを作らなければならない。

肝心なのはこの「仕組み」であって、そこんところはなにか思いついたらいいんですけれども。

 

 若干小難しい印象を受けますけれども、読み進めていくとパズルのピースが埋まるように前書いてあったことがどんどん理解できて、一頁毎に理解が深まる手応えが感じられます。退屈だと感じるのなら脳みその体操代わりにもなり得る素晴らしい読み物でした。そして著者である岩井克人氏のどこまでも広がり、どこまで言っても経済学に結びつく思考回路はなんとも興味深いものです。ひょっとするとこの人はギャグでこれを書いているのかもしれません。

 

光の謳歌印象派展

 仕事に明け暮れる訳でも無く、日々が忙しい訳でもないのに、自分で自分の時間を制限してしまい、何事にも無頓着になりがちに四月の上旬を過ごしてしまいました。言い訳をするかのように、仕事が終わってから今日はつかれたから少し横になろうと、そのまま朝を迎えてしまい大したことをやっているわけでもないのに家と会社の往復だけに。それに付随してストレスを抱え込んでしまい我ながら悪循環だなと感じています。

 

 そんな悪循環をどこかで断ち切ろうと、たまたまチケットを譲り受けたので今週の休日は京都文化博物館で催されている「光の謳歌印象展」に行ってまいりました。

自分の描く絵のひどさも相まって、音楽とは違い展示や絵画に表される芸術というのは疎いので何が良いとかどう素晴らしいのかという感性は持ちあわせていませんが、なんでもいいからズタズタに引き裂かれた生きること美的経験、美的感覚の統合を図るかのように足を運んできました。

光の謳歌印象派展と謳われているだけあり、クロード=モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド=シスレーカミーユピサロなどの印象派と呼ばれる画家の展示で、展示数から言うとなかなかの規模なんじゃないでしょうか。

 

 印象派とは画家のグループの総称でもあり、屋外での制作による光を意識した明るい色彩表現と伝統的な絵画技法にとらわれないものらしいです。モチーフも河や海、あるいは街の風景など身近なものを描いております。当時は自由すぎる表現に批判も相次いだらしいですが、今となってはそんなものは関係無くエレベーター、エスカレーターの利用に並ばなければいけないほどに閲覧者がこぞって足を運ぶ時代になっているのですね。

絵画を見た印象としては、確かに明るい色彩を用いての描写であり、空や水の青色を基調としその場での空気感までをも描写しようとしている一種狂気じみた、けれども美しい風景達です。絵画は視界とは違い、キャンパスの縁に沿って四角だとか丸に区切られてしまうので、そのキャンパスと画家達の視界に映る現実風景の境にズレが生じてしまい、どことなく違和感を覚えることもありました。しかしそれが絵画達の宿命であり美しさを閉じ込めるための限界なのかもしれませんね。

嵐の描写なら嵐の恐ろしさや荒々しさを区切りとり、穏やかな水面ならその静けさまでをも描写している。また雨が降り出しそうな町並みからその湿度までをも見たものに感じさせる、あえていうなら鬼気迫るとまで言える描写に何もわからない私でも息を呑むようなものがありました。

 

 ここで気になるの、そういった絵画達を「印象」派として表現するのは何なのでしょうか。「印象」というのは一義には「心に残る、心に映る」という意味です。英語の"impression"から訳された言葉なので、そっちの方から考えるとわかりやすいかもしれません。「心に残る、心に映る」というのは見た事、感じた事、経験した事が自分の中に残ることであり、いわば心に焼き印を押し付けるかのように強く残り続ける。

第一印象という言葉があるように、私達はまず見たことから物事を判断しようとします。人の印象に言うならば、清潔な服装をしているから誠実そうだとか、髪の毛を染めているから素行が良くないかもしれない、などといった見た目の印象から人となりを想像します。人となりとかはどうでもいいので、ここで大事なのはそういう印象をもたれるということであり、「印象」というものは主観よりも客観的な感性であるということです。

日本のクリエイティブ・ディレクター箭内道彦さんはあえて金髪や派手な格好をして、お手並み拝見となったときに、その派手な印象をもたれることに能力が追いつかないとカッコ悪いと自分を追い込んでいたそうです。最高にロックな考え方だと思いますが、これは余談です。

 

 印象派は、画家達が見た風景の「印象」を私達が垣間見るのか、あるいは画家達の絵画を見た私達の「印象」に当てはめられる言葉なのかわかりません。百点にものぼる絵画を見た中で私が最も印象深く見入った絵画が、その中でも二点しか展示されていないポール=セザンヌの描いたものでした。特に「水の反映」は立ち尽くし魅了されてしまう絵画でした。そのへんは感性の問題なのかわかりませんが、ここでは私の印象としてはその絵が強く残っています。

音程がずれている音楽は音痴で聞きづらいものであるように、表現する色彩がずれている絵画は見難いものであると思います。ですが時にはその狂いが心地よく表現されるときもあります。「水の風景」は他の展示と比較すると、割合突拍子もない色彩が用いられているのですが、私にはそこに一種の秩序と独特の美的感覚が感じられました。展示の隅っこのほうにぽつんとありますので、行かれるようなことがあったら見てみてください。是非ともその印象を聞かせてほしいです。

 印象派の展示は、基本的には美しく心穏やかな描写ばかりですので、これを嫌うというのはなかなか独特の感性の持ち主だと思います。五月の中頃までやっているのでぜひとも行ってみてください。

 

 美術館や展示会に足を運ぶというのは、年に一、二回あればいいほうですが、なんとなく以前よりも芸術に対する認識と理解をもてるようになったのかなあと感じるので機会を作って足を運ぶようにはしたいです。以前知り合いに「絵画というものはいまだによくわからない」と話をしたときにその人は「この線を何を思って描いたのか、この色使いをなぜしているのかと思ってみると憎いなあと思える」と仰っていました。その人は私が見ている世界よりも上質な世界を生きているのだなと印象を受けました。そういう世界に近づけるように意識をもって接するようにしたいものです。

幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方

 

幻滅と別れ話だけで終わらない ライフストーリーの紡ぎ方

幻滅と別れ話だけで終わらない ライフストーリーの紡ぎ方

 

 「わかる」ってのは「分かる」とも書けるので、要するにわかることってのはあれとそれを分けられるようになって「これってこういうものなんだ」と腑に落ちてあるカテゴリーに分類することができる。

もう少し踏み込むと、生々しいものときれいなもの、善と悪のように、人間をふたつに分類しようとすると、嫌いなんだけれども身の回りに置いて置かざるをえないどうしようもないものがあり、それを気持ちが悪いと感じてしまうんじゃないでしょうか。これが分からないものであり、価値観が問われるものです。人は気付いてないんだけれども、無意識に不安になってしまったり恐怖を感じたりしているのはどっちつかずな中途半端な状態、いわば分からないものについてなのかも。

 

 ただ同じ海を並んでじっと眺めるように、安らいだ気持ちで生きていくにはどうすればいいのか好い加減で生きていくにはどうすればいいのかをよしもとばななさんときたやまおさむさん二人で探っていく「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」。

 

ー小説家・よしもとばなな精神分析医・きたやまおさむが、『古事記』、浮世絵、西洋絵画、映画、マンガにいたるまでの文化の深層を語り合い、日本人のこれからのあり方を「並んで海を眺める心で」いっしょに考える、新しいスタイルの講義・対談。(本作内容)

 

 少し前に、知り合いの女の子がいて、彼女は「よしもとばななさんは神様みたいな人!」と言うぐらいに敬愛しておりました。何作か読んだ経験があるのですが、私の印象としては主人公が聞いたことのある話を一人称で語る本であり、著者自身へのふわっとした感触としては裏表がきっと無いんだなと思いました。そういう人柄みたいなものが人を惹きつけて止まないのかなとも思いました。以前はよしもとばななさんの父である吉本隆明さんと北山修さんの対談本を読んでいたので、これも読んでみようと思いました。

 

 北山修さん自身フォーククルセイダーズのメンバーであったり精神科医であったりとなかなかにユニークな人です。さらに考え方も興味を抱かざるを得ないものであり、この本を読んでいる際中にも都度立ち止まって咀嚼してしまい、読むのに時間がかかります。

 精神科医であるからには、人間の心と言うものにどう向き合うのか考えざるを得なく、北山修さんは「精神分析とはこころの台本を読むこと」と言っております。この文句はストンと腑に落ちるものがあり気に入ってしまいました。

 

 私は「こころとか言うものがあるのなら、見してみろや!!」と大学時代の教授の考え方に、当時は深く共感してしまい、つい最近まではそういったスタンスを取りながら「こころ」の在り方を考えていました。北山修さんの話を読みだしてから「この人はこころが在るとは断言しないな」と感じ、精神科医としてどういう風にその、いわゆるこころというやつと向き合っているのか知りたくなりました。そこでこの「こころの台本を読むこと」というのは素晴らしいなと感じてしまいました。画一的なこころが存在するのではなく世界という舞台に立ち臨んだときに、そこで演じられているこころの動きを読み取っていく、人が世界に直面したときにこころが持つ台本を理解しようとするのが精神分析である。とでも言うのでしょうか。

その台本に問題が見られる場合、患者に語りなおしていくことによって、言語的に治療しようと試み、そこで精神科医は人間の基底である無意識へと手を伸ばし、こころの台本を読みとし、その物語を紡ぎ出そうとする。

 

 今まで私がもっていた半ば受け売りのような「こころ」の在り方への反発は幼稚じみたものであり、今立ち止まって考えるのならば「こころというものが存在するかしないかわからないけれども、実感としては在るとも言える。だから論理としてその是非を確認しようと試みてもいいんじゃないかしら」ぐらいには思えます。手放しで「こころ」と言うのは、なんだか納得いかないものがありますが、あるかもしれないと考えながら水のように掴みどころがなく、雲のように不確かな「こころ」を考えていけたらなとも思います。通常の環境下では水はつかめもしないし、雲には届かないものですしね。

 

 肝心の内容ですが、幅広くトピックを扱われているので、どんな人にでも目を留めてしまう講義あるいは対談があると感じます。私は都度都度立ち止まってお二人の言葉を咀嚼するのにもの凄く時間がかかり、読み切るのに一週間近くかかってしまいました。他にもこの場に書きとどめたいことはたくさんあるのですけれど、長くなるだけなので個人的な所に記しておくぐらいにしておきます。

夏への扉

 

夏への扉[新訳版]

夏への扉[新訳版]

 

  文章を書くことは楽器の練習にも似ていて、毎日続けていたら実感すら覚えられない小さな所で、文章を書くための筋肉が鍛えられているのかなと感じさせられます。一方でしばらく休んでいると今までのように、内容の是非はともかくとりあえず何か書けたはずなのに、その程度のところもなかなかに厳しくなってしまっております。

話は変わりますが私はギターを10年間続けています。はじめて人前で演奏したのは中学校の文化祭で当時の演奏を今思い返せば、乾ききったと思っていた情念がまだ湿り気を帯びていたと気付かされるぐらいに自分の中の動揺は隠しきれません。そんなこんなで10年もやっていたら上手い下手はともかく「それなり」に人前で演奏を出来るようなってきました。人前で演奏できるようになった節目というのはわかりませんが、とりあえず好きで続けていたらそういう機会が出来たのです。

楽器でも文章でもなんでも好きで続けていたら、どこかで人前で評価されるのかもしれないと期待とそれと同じくらいの緊張をもって続けていきたいものです。

 

 「明日は今日よりずっといい日になる」と手放しで信じるのは少しいただけませんが、そうとでも思っていないと、明日の向こうを見据えて進んでいこうという気分になれません。日々が過ぎると季節も巡る。季節は巡るものではなく望むものであり、冬がきたら春が来るんですよと季節の向こうに希望を持つことで移り変わるのではないでしょうか。本人が望まないのなら冬は冬のまま心に残り続けてしまう。

裏切られようが人生に絶望しようが本人が望むのならきっと明日はいい日になると信じてやまないと思わせる主人公がユーモラスでステキな小説「夏への扉」。

 

ーぼくが飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探し始める。家にたくさんあるドアのどれかが夏に通じていると信じているのだ。そしてこのぼくもまた、ピートと同じように夏への扉を探していた。(本作内容)

 

 主人公の一人称の語り口が場面場面を感情的に切り取っていて、翻訳の素晴らしさもも相まって、三百五十頁ほどを一晩で読みきってしまいました。1960年代に書かれた小説なのですが作者の先見の明とでも言うのでしょうか、未来への希望と予見が素晴らしいなとも思えます。お涙頂戴の感動小説だとか人生観に強い影響を残す類の本ではないのですが、読後には心の中に暖かさが感じられふと口の端が持ち上がってしまうような本です。

Science Fictionというだけあり、現実には考えられないような画期的で科学的で首尾の良い流れも出てきます。読む人によっては都合が良すぎると面白みを欠いてしまうのではないでしょうか。けれども小説なんていうのは大体がご都合主義で、作者にとって都合のいい展開が広げられてこその物語だと思います。そこをいちいち食ってかかっていては退屈な時間を自ら増やしてしまうだけでしょう。

 

ーでもピートはまともな猫なので、外に行くほうが好きだし、家中のドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという信念をぜったい曲げようとしない。そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。(「夏への扉」作中346p)

 

 ピートは家中のドアがきっと”夏への扉”につづいていると信じている。扉をあけてみても懲りずに。こんな風に可能性を信じ続けることが出来ることこそが強さだと思います。諦めない逃げ出さないという選択肢は無く、絶対に”夏への扉”があると信じぬける強さこそが明日は今日よりずっといい日になると言える強さなのでしょう。やり直しのきかない人生だからこそ、望むものに焦点を定め続けることが出来たなら。私でも、たかがか四半世紀足らずの人生ですが、その強さがあればなと思うことがあります。もしくはきっと半世紀生きようが同じようなことを思っているのでしょう。

私もピートが正しいと思います。そして羨ましくもあります。

 

 猫を愛するすべてのひとたちに。と冒頭に書かれているのですが、思いっきり猫の描写があるわけでもないので、猫を愛していても犬を愛しても、きのこ派でもたけのこ派でも関係なく読める小説です。先ほど書いたように、メッセージ性の強い物語ではありませんが読みやすいので、何か読んでみたいと思っている方は是非一度手に取ってみてください。