コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

走ることについて語るときに僕の語ること

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 聴いたことのないジャンルの音楽を聴きだすように、新しいことをするということは何らかの契機みたいなものが必要な時もありますし、そうでない時もあります。そういう時って何気なくという言葉が一番適切で後者のようなタイミングで何かを始めて、自分が合う合わないの判断をそこでして、合うならのめり込むし、合わないなら通りすぎていく。

  二月頃に兄と二人でテレビを見ていたらホノルルマラソンを紹介しており、大々的にそこで紹介されていたホノルルの景色が本当に素晴らしくって何気なく、ふとした会話の弾みのように「ホノルルマラソンって綺麗やね。走ってみたい。」と言った折に兄の提案で五月に長距離マラソンに出ることになりました。

これまでの人生で運動らしい運動をしたような経験もなく、さらに見た目もさることながらインドア以外何ものでもない私がマラソンを始める、ましてやそう多くの人が進んで出たがらない長距離マラソンに参加するなんてことを一体誰が想像できたでしょうか。結果だけを言うならば、ハーフマラソンに参加してきました。

 走りだした頃は、人生の不摂生が祟ってか2kmも走りこんだら心臓は16ビートを刻み呼吸は荒々しい排気を吐き出すしかありませんでした。けれども人間の体というのは不思議なもので騙し騙しでも走っていると徐々に鍛え上げられていき二週間も経てば人並みに5kmを走っても余力を残すほどに。それからは習慣的に、二日に一回のペースで走って、時間をかけてハーフマラソンへの調整をしていきました。

 私が走る目的なんていうのは大したことではなくて、健康になりたい、今のうちに体をつくっておきたい、等の立派なものではなく単純にホノルルマラソンが綺麗だから走れたらいいなと思っているだけです。その過程で何らかのマラソン大会に参加するだけであって、その辺りは適当にやっています。あえて何かを言うならば、仕事をしだしたということが関係しており、曲りなりにも仕事をしていたら自分の無能さに直面し意味もなく一人で心の中に鬱憤を蓄積してしまい、いわば心と体のバランスが取りづらくなってしまいストレスを抱え込む。そのストレスを解消するために体も何らかの方法で、今回は走ることで、ダメージを与えて心と等しいぐらいにまで追い込むことで均衡を保とうとしている。といえばそれらしいのですが単純な所で気分転換を兼ねてと一応の目標を立ててというところです。

 

 走りだす前から村上春樹さんの著作「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでいたのですが、走る事というか体を動かす事から無縁だった私には遠い世界の話で、数頁に目を通してそれきりになってしまいました。今回ハーフマラソンを走った事で改めて本を開いてみると、まだまだ遠いけれども書いてあることに共感や理解を示せるようになりました。感覚的であるとか体感的であるものを言葉にする作業は本人にとってはある種の確認作業にもなり、反復でもあり、それを読んだ他の人には体験の伴わない言葉である限り、到底理解できないものに成り下がってしまうんじゃないのかなと思います。興味のない分野の評論やエッセイを読んでも、まったく共感できないもんですよね。

けれども曲りなりにも走ることをしった私には非常に面白いエッセイに成り上がりました。これは当人の問題であって著作にはまったくもって関係のない話です。

 

 村上春樹さんは、彼自身走る事と書く事はそう遠くないものであると言う風に仰っております。小説家にとって必要な技能と、ランナーにとって必要な技能を構築していくのは同じものでもあると仰っております。私自身物書きではないのですが、そう言われてみるとそうかもしれないなと思いながら読み進めて、なんとなく走ることを続けてみたいなとも思わせてくれます。

 よもやま話になりますが、ある一つの事を習熟する過程というのは辿る道筋が違えど、似たようなものであり応用の効くものなのではないでしょうか。例えば私の場合、人並みに誇る事が出来るのはギターが弾けるということですが、これにあたっても基礎を築き、理論を構築して、それらを繋ぎ合わせて技術を向上させる。細かい事はよくわかりませんが(ロールモデルを見つけるとか、色々ありますが)簡単に言ってしまえばこういうことなのです。世の中の大体の事を習熟する場合にはこういう過程を当てはめることが出来ると思うので、そう遠からずともであり、また一見関係の無い事でも、物書きであることとランナーであることのように、実は過程自体は近い距離にあることもあるんでしょう。

 

 どちらにせよ、進んで自分の体を痛めつけるような行為には、ある種の狂気性のようなものであり、上で書いたように、どこかで心と体の損傷具合のバランスを取ろうとしているのかもしれないと思わせる内容でした。今回の私が学んだ点というのは、興味のない分野に興味を持てるようになるには、まずやってみるしかないということですかね。こんなことって当たり前のことなんですかね。