コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

厄除け詩集

 

厄除け詩集 (講談社文芸文庫)

厄除け詩集 (講談社文芸文庫)

 

  2015年、人生の節目だと言ってもいい出来事があり、それによって自分でも気づかないぐらい、余裕みたいなものがなくなっていました。好きなことをしていても、イマイチしっくりこない。とてもじゃないけれど、何かを自分の中から引っ張りだすほどの余裕がなかった、と言う日々を過ごしていました。

ともあれ、今となっては落ち着いてきてまた改めて出来れば週一回ぐらい何かか書いてみたいなと感じています。

 

 久しぶりに書いてみようと思ったのが、自分の人生に影響を与えた本という話題で人と話をしたからです。改めて考えてみて、そして実際にその話をしてみたときに、これが自分に影響を与えていたのだと再度認識した次第です。

と言っても、私の場合一冊の本というよりも、一つの詩に出会ってから確かに影響を受けてしまったのかなと感じています。

 

 それは唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」に付した、井伏鱒二の妙訳です。

おそらく多くの方がご存知だと思います

 

「コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトヘモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ」

 

最後の一節に読んだ時に、当時は高校生ほどでして、月並みな表現をするとまさに鳥肌が立ってしまったのを鮮明に覚えています。内容も然ることながら、言葉選びのリズムの小気味よさ、字面だけでも見惚れてしまうような芸術的な美しさがあります。

 

少し私なりに解説をしてみますと、この詩の捉え方は二通りあります。

一つは「別れの時が来たので その別れを惜しむ」惜別の捉え方。

二つ目は「その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということ」と捉えるいわば 一期一会です。

もちろんどう捉えるかはその人それぞれとなりますので、好きなように解釈して頂ければと思いますが、若い私はこの詩を読んでこう感じました。もしかするとその時感じたことは未だに私にこびりついてしまっているのかもしれないなと今回話をしていて、らしくない手応えを覚えてしまいました。

 

いつか別れが来てしまうのなら、私が人と出会うのはなぜだろう。

どうして人と別れてしまうと、心に隙間が出来たような喪失感があるのだろう。

こんなに哀しいのなら、苦しいのならと、北斗の拳サウザーみたいなことを感じました。

 

出来るならば私は出会った人にさようならを言いたくありません。

しかし卒業や移動、またどうしようもない理由で二度と会わない人も今までにたくさんいます。そして人との出会いの数だけ、その人達にさようならを言わなければいけなくなってしまうと考えてしまいます。

 

寺山修司という歌人、劇作家が井伏のこの訳詞の後にこう続けています。

 

「さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう

はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう

さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう

やさしいやさしい夕焼けと ふたりの愛は何だろう

さよならだけが人生ならば 建てた我が家は何だろう

さみしいさみしい平原に ともす明かりは何だろう

さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません」

 

こう言ってはなんですが、私は寺山修司と近いものを感じてしまったのではないでしょうか。

 

 最後に余談ですが「さようなら」の語源の一つに「左様ならば(致し方ない)」と言われています。どこか無常観を感じさせますね。

ちなみに英語の『good-bye』の意味を調べてみると『God be with you. 』という祈願文が縮約されたもので、『神がなんじとともにあれ』という意味になるのだそうです。日本語とは違い、祝福をする言葉となっています。こちらも余談です。

 

さようならは極力言いたくないものですね。

斜陽

 

斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

 

  毎度ながら久しぶりの投稿です。四月に前の仕事を退職し、六月からこの歳になって新天地に新生活と目まぐるしい日々を送っていました。鞄の中にはなんらかの本が入ってなにかしら活字に目を通してはいたのですが、頭の中が整理できずに何も書こうというか、書けるような手応えのないままに長らく時間を空けてしまいました。

過去の投稿を見ていても直近では言い訳じみた書いていない理由を記していましたが、なんてことはなく、何かを思うほどに頭を使っていなかっただけなのだなと感じます。

では今は書けるのかというと、実感はなく、とりあえず書いてみようと本を向き合っている次第です。

そんな心持ちで太宰治の本を手に取るというのは自分を追い込みたいマゾヒズムめいた自虐があるのかなと読後に思いました。

 

ー母、かず子、直治、上原の四人を中心として、直治の「夕顔日記」、かず子の手紙、直治の遺書が巧みに組み込まれるという構成の作品で、没落していく弱きものの美しさが見事な筆致で描かれている。発表当時から現在に至るまで賛辞の声がやまない、「人間失格」と並ぶ太宰文学の最高峰である。(本作内容)

 

 かず子の語りで綴られている、没落していく弱き者の美しさが描かれた作品。

実のところ高校生の頃に読んだ事があるのですが、余りピンとくることもなく読み通しただけだったのですが、今になって読むと、文章を通して作中に漂う灰色めいた景色が目に浮かび、良くも悪くも、本を読めるようになったのかなと思いました。

お酒を楽しむとか、ある程度歳を取ってから手に取ってみると深く入り込めるようになっていることがあり、歳を重ねてからのほうが価値があるかもなと思わせる内容です。

 終始文章に漂う灰色の不吉さが、否応なく私のような人間を引き込んでしまい目が離せない言葉運びにはっとさせられ、人生って何なのかなと改めて考える材料を与えてくれます。

 

ー革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ(作中引用)

 

 語り口であるかず子に感じるのは、理性的な人間というよりも感性で生きているように見えます。その感性が、ある場面では論理や理性と言った社会的な道徳や規範よりも、言葉にしえない説得力、力強さを秘めておりブレのないかず子には賞賛を覚えてしまいます。人間はなんのために生まれてきたのだ。恋と革命のために。どう捉えるかは難しいです。恋と革命、あえてこの場面で言うならばなんらかの形で、子孫や偉業と言った、生きた証を刻みつけたいと望むことなのかもしれません。

 

いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。(作中引用)

 

 物語の最後に一節出てくる文章ですが、これを読んだ時に「なるほどな」と納得してしまいました。滅びの美しさを描いた作品だなと私はここを読んで感じました。

斜陽とは、夕日や西に傾いた太陽と言った意味の他に、かつて勢いのあったものが時勢の変化についてゆけず傾いていく様を表しています。この場合の題名の意味は後者の「時勢の変化についてゆけず傾いていく様」であり、夕日といった暖色よりも、先ほどいったような退廃的な灰色の色合いが強く出ている作品です。

 

 劇的な結末や、想像を越えるような顛末がある作品でないですが、統一性があり一ページ一ページに対して登場人物の姿勢がはっきり見えます。読みやすいかと言われると、太宰治の作品に共通することですが、人を選んでしまう小説です。

 *(

マディソン郡の橋

 

マディソン郡の橋 (文春文庫)

マディソン郡の橋 (文春文庫)

 

 

 本を読む機会がめっきり減って、以前のペースと比べると半分以下でしたが少し余裕を持って前向きに読書をしていきたいです。更新していなかった間にも何冊か書いて思うものが多々ありますので一つずつ拾い集めて行きたいと思います。

久しぶりにしては少しばかりディープな題材を扱ったものになりますが、さすがに不朽の名作、映画にもなっているのでご存知の方も多いと思います。古典的とも言える、一つの美しいと呼ぶしか無い、愛を描いた「マディソン郡の橋」です。

 

ー屋根付きの橋を撮るため、アイオワ州の片田舎を訪れた写真家ロバート・キンケイドは、農家の主婦フランチェスカと出会う。漂泊の男と定住する女との4日間だけの恋。時間にしばられ、逆に時間を超えて成就した奇蹟的な愛―じわじわと感動の輪を広げ、シンプルで純粋、涙なくしては読めないと絶賛された不朽のベストセラー。(本作内容)

 

 簡単に言ってしまえば男女の不倫を描いた小説。しかしそんな簡単に切り捨ててしまっていいのでしょうか。こと日本においては倫理的にそれを乱す行為は罪となります。もちろん愛すべき伴侶が存在し、そこを不義理にしてしまうというのは間違い無く罪とはわかっております。ですが、そういう言い切ってしまっていいのでしょうか。この本は読者の経験により判断がまったく別れてしまう内容だと感じました。見方によっては、とんでもないことです。しかし、ロバート・キンケイドとフランチェスカ・ジョンソンの間には本当の、愛を感じていた。だからこそ物語最後のフランチェスカの子どもたちへの手紙に彼女は「この愛があったからこそ、自分は家族のもとに留まる決心ができたのだ」と書いてあります。もしこの愛が無かったなら、私は家族を捨ててどこかへ行ってしまっていたかもしれず、この地と夫と子ども達を愛することもなかっただろうとも書いてあります。

 

 日に日に神経を先細らせていく世界で、自分の感受性の殻に閉じこもりがちになってしまっている。なにが情熱でなにがつまらない感傷なのか、私にはわかりません。

「文化や芸術といったものが不倫から生まれることがある」と発言した人が過去にいますが不倫だなんて、簡単に言うつもりはありませんが、文化的なものがそういったものから生まれ得ることもあるでしょう。日本文学にもそういったものを題材とするものが多くあり、禁忌として見られるからこそ芸術な美しさを備えることもあるのかもしれません。

 

運命と言う大きな枠組で捉えるならば、今一緒にいること、一生一緒にいること、そして離れてしまうのも全て運命なのでしょうか。生きる時間とは一つの人生ではなく、「もし......」と言える数だけ存在しているのでしょうか。そしてマディソン郡の橋ではフランチェスカは二つの人生を同時に生きたのかもしれません。

 

愛すべき人がいるにも関わらずといった火遊びを揶揄しているのではなく、いつ、どういったタイミングで本当の愛と言えるものに出くわすかはわからない。結局の所、その人が運命と言えるのか、生涯の伴侶と言えるのか誰にもわかりません。例えば今愛すべきパートナーがいたとして心から運命と思えるならばそれ以上に幸せなことはあるでしょうか。わからないからこそ、とも言えるのですが。

投資家が「お金」よりも大切にしていること

 

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

 

  ふと目をやると、少し前までは緑々と茂っていた葉先から秋の訪れが感じられる季節になりました。まだまだ日中は暑いと感じるほどですが、日が沈みかける頃には肌寒くなってきています。窓の向こうから聞こえる虫達の合唱は、囁きにうつり心地よさをも感じさせる時期ですね。

 

 最近まとまったお金を使う機会が多くあり、そろそろ冷静にお金を貯めていかないといけないなと思う事が増えました。でもこんなに自分を振り回すお金っていったい何なのか?と同時に疑問を抱きます。社会的だとか文化的な生活を営む上では欠かすことのできないもの。生きていく上ではきちんと向き合っていかないといけないものだとはわかっているのですが、その実何も理解していないじゃないかと自分の不甲斐なさにも気づいてしまいます。

その時に思い出したのが糸井重里さんがやっておられるほぼ日刊イトイ新聞での対談で、ひふみ投信という投資信託を経営されている藤野英人さんとのやり取りを思い出しました。この人が去年に出された本「投資家がお金よりも大切にしていること」。手にとった時、書き出しに興味を惹かれてしまい一息で読んでしまいました。

 

 ー人生でいちばん大切なカネの話をしよう(本作内容)

 

 お金って一体何なのか?言うまでもなく、皆が必要として欲しているものです。ですが日本においてはお金の具体的な話をするのは割合禁句として見られています。年収の具体的な内容を聞くのは女性に体重を聞くのと同じくらいの無礼ではないでしょうか。

わかっていることは、お金とは貨幣とは、商品に与えられた数字いわば価格に対しての等価交換を行うためのある種の象徴みたいなものでしょうか。以前読んだ「ヴェニスの商人資本論」でも同じような問いかけをもって考えてみたのですが、具体的なところまで踏み入ることができていないなと実感します。なんとなくわかるのだけれど理解ができていない。日々使っている割にはお金に対して実感が無いものです。

 日本においては、お金持ち=悪という考え方が強く根付いています。お金を稼ぐには悪いこともしなければならない、日々のニュースに時たま目をやるだけでもお金を悪い方法で稼いでいる人達が捕まっています。そういった面ばかり見ていては、無知な私でも悪い事をしなければ稼げないのかと思ってしまいます。また地に足をつけて稼いだお金じゃないといけないという考えもあります。不労所得、自身の持つ資産を活用してお金を稼いでいる人には多くの人が良い感情を抱かないのではないでしょうか。コツコツと地道に稼いでこそ日本人としての美徳があると私の勤務している会社でも近いことを言っている人たちが多くいます。その考えは間違っていないけれど、なんだかひっかかるなと感じます。

プロレタリアートとブルジョワジーの違いとは、プロレタリアートは自身の時間や体力、知力を消費して稼ぐ人であり、年収が何千万と言う人でもその人はプロレタリアート、無産階級です。一方ブルジョワジーとは、お金がお金を生む仕組みを持っている人です。ざっくりと年収200万の人でも、お金がお金を生む仕組みを持っている人はブルジョワジー、資本家階級です。若干話が逸れてしまいました。

 

 お金が絡む事象は経済として考えられます。じゃあ経済って一体何なのか?

ー経済というものは、その語源からして「みんなの幸せ」を考えるものなんですね。

Economy(経済)の語源は、ギリシャ語のオイコノミアです。中略(作中p97)

 

ギリシャ語のオイコノミアとは「共同体のあり方」という意味で、経済学の本質とは「どのように生きたらみんなが幸せになれるかを考える」ということです。ちなみにエコノミーを「経済」と訳したのは諸説はいくつかありますが、明治時代に福沢諭吉が訳したという説が有力です。経済という日本語は「経世済民」という言葉からきており、これは中国の東晋時代に同郷研究科の葛洪が訳した「世を納め、民を済う」という意味です。

つまり私達が、個人としてだけではなく、どのようにすれば幸せになれるのか「お金を通してみんなの幸せを考える事」が経済なのではないでしょうか。

 

 藤野英人さんが投資先を選ぶ際には「成長する会社」を中心に投資しています。大手だだろうが中小だろうが、社会のために役に立っているかどうか「みんなの幸せを考えている」真面目な会社かどうかというのが判断材料になっています。この考え方は単純明快ですね。具体的な内容までは是非本を手にとって見ていただきたいのです。

投資=マネーゲーム、博打ではなくて、みんなの幸せを考えている真面目な会社を応援するための手助けではないでしょうか。

お金にこだわるのは卑しいことではなくて、結局必要なものなのだからみんなの幸せを考えるためのものとして向き合えば、もっと誠実にお金のことを考えられるのではないでしょうか。読み口も優しくわかりやすいので、お金を儲けたいとかお金って何だろう?と少しでも思っている人、まだ就職していない学生の方にも読んでみてほしいです。 

自由の牢獄

 

自由の牢獄

自由の牢獄

 

  夏の気配が薄くなる日柄。どことなく周囲には秋めいた香りがしています。

何気なく夏を過ごしてしまい、今年はどうだったのかなと思い出せることが余りありません。去年でしたら特に心労を抱くこともなく、存分に目の前の楽しみを過ごすことができました。ですが四半世紀目の人生を迎えながらも季節感を大事にできないほどに一杯一杯で生きているようです。

ここ何回か書き続けていますが、日々の生活の中で若干余裕を欠いてしまっておりゆっくりと自分と向き合うことはおろか読書に耽り心だけでもどこかへ行こうとする気力も落ち気味になっていました。それではいけないと思い活を入れようと目に止まったものから調整がてらに余裕を見出そうとしています。

 

 今の仕事は勢いで決めた所があり、本当に自分がやりたいことなんだろうかと今更ながら就活生のような疑問を抱いております。能力の是非は置いておいて、自分がなりたいと思うのならある程度は職業の選択が有る時期がありましたが、それすらも迷いに迷って決めかねてしまい、今更ながらツケがまわってきているのかなとも思います。

自由であったが自由になれなかった。選択肢がありすぎて路頭に迷ってしまった。とにかく目の前にあった扉をこじあけるように選んだ人生なので文句を言っても仕方がありません。自由すぎるが故に、何も決められなかった。

今回読んだのは「モモ」や「はてしない物語」で多くの方がご存知のミヒャエル・エンデ。彼の短篇集「自由の牢獄」です。短い物語がいくつかあるのですが、終わりのないお話は、どこまでも考える材料を提案してくれます。

 

ー精神の世界の深みにおもりを下ろし、そこに広がるさまざまな現実を色とりどりの花束に編み上げた、エンデ文学の到達点を示す力作。(本作内容)

 

 八話の短篇集からなっており、そのどれもが読み手の精神の深くにまで訴えかけるどこまでもディープなお話です。一つ一つを手にとってどこまでの深みにたどり着いているのか確認したいのですが、今の私には難しいことです。今回は表題の「自由の牢獄」に向き合ってみたいと思います。

 若くみずみずしい力に満ちた、うぬぼれた思い上がりに囚われた商人はアッラーの教えをも無碍にし、自由気ままに振る舞っていた。そこに天国から舞い降りたような美しい踊り子に誘惑されるが、それはイブリース(悪魔)であり、その罠にかかり百十一の扉しかない、全知全能さえも目の届かない空間に閉じ込められる。そこには<声>が語りかけてき、商人の中に疑いと、決心を鈍らせる迷いを投げかけてきます。

百十一の扉の先には、恐ろしい厄災が待ち受けているか、この世の快楽の限りが満ちた運命が待っているかわからない。しかし一つの扉を開けてしまうと、他の運命は固く閉ざされてしまい、選択したことを受け入れることしかできない。しかし商人は自分の疑いと<声>に惑乱され選ぶことができずに老人になるまでその空間で過ごし続ける。

 

これが自由の牢獄です。あらゆる選択肢を、自由であるが故に選ぶことができない。神の慈悲を乞うこともできずにただ呆然と空間の声と自分の猜疑心に悩まされ続ける。

 

 自由とは多くの選択肢から一つを選ぶことだという風に思いがちですが、そこには意志や希望、あるいは欲望があり確固たる私が介入し得ない、完全に自律的な自由は存在しない。希望は可能性であり、可能性はまだ存在しないもの。私達は一瞬一瞬の一つの形を一つの状態でしか選ぶことができません

本当の自由とはいったい何なのでしょうか。私達が選択をする時にはどういった意志がそこに介在しているのでしょうか。少し違うアプローチをしてみると、「自由でない」とはどういうことでしょうか。一つには、「選べない」つまり「迷う」ことだと思います。自分が選択するということはそれによって全責任を自身が負うことになります。だから躊躇してしまう。選べない。これが自由の反対に位置する一つの見解だと思います。なので本当に自由であることは、「迷わないこと」ではないでしょうか。このお話では商人は百十一もの選択肢があり、自由に囚われた余りに選ぶことができない。

 

 私達が欲しいものを自由に買う。例えば私が時計が欲しいから世の中に数ある時計の中から、自由に、一つだけ選べるとします。もちろん気に入ったデザイン、ブランド、機能性など選択するための材料はたくさんあります。そこで選んだものは、本当に私自身が望むように、自由に、選んだものなのでしょうか。ここで私が懸念するのはそれに対して他者からの判断を仰ぐのではないでしょうか。他者が承認してくれたものでない限りに、心からそれを認めることができない。ここでは<声>、つまり他者からの承認が得られないことに自由を象徴する数ある扉を前にしても気が遠くなる時間迷い続けてしまうのです。

 

 ここ数年でも「自由」は多くの人にとって人生のキーワードになっていると感じます。自由に生きるとは。本当の自由とは。結局の所私達は社会的な人間であり他者の存在でもって自身の存在を確かめることができる。それは自由という感覚にも関わる大事な要素です。完全に確固たる私が選ぶことが出来る自律的な積極的自由と社会あるいは他者からの視線に影響する受動的な消極的自由の二つがあると感じます。そして積極的自由というものは本当に少なく、もしかすると私はそういった形の自由を目にしたこと、触れたことはないのかもしれません。

 

 この自由に関する話でも、本編では一つの側面でしかありません。この短篇集の一つ一つが俗にいう「考えさせられる」ものであり、完全に理解していくとなるとまだまだ私には理解がおよびません。ミヒャエル・エンデの多くの著作は一応児童文学に位置していますが、大人の方でも、昔読んだ方は大人になったからこそ、また違った「考えさせられる」材料を提案してくれるでしょう。

 

 この本を読みながらもし私がこの空間に飛ばされ百十一の扉を目の前にしたらどうするだろうかと想像してみたら、きっと私は早々にいづれかの扉を開けて自分が選択した運命を受け入れるだろうなと思いました。扉を選ぶのも運命であり、選ばないのも運命でしょう。また運命に抗うのすらも運命かもしれません。もし貴方が百十一の扉から選べと言われたらどうするでしょうか。