コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

夏への扉

 

夏への扉[新訳版]

夏への扉[新訳版]

 

  文章を書くことは楽器の練習にも似ていて、毎日続けていたら実感すら覚えられない小さな所で、文章を書くための筋肉が鍛えられているのかなと感じさせられます。一方でしばらく休んでいると今までのように、内容の是非はともかくとりあえず何か書けたはずなのに、その程度のところもなかなかに厳しくなってしまっております。

話は変わりますが私はギターを10年間続けています。はじめて人前で演奏したのは中学校の文化祭で当時の演奏を今思い返せば、乾ききったと思っていた情念がまだ湿り気を帯びていたと気付かされるぐらいに自分の中の動揺は隠しきれません。そんなこんなで10年もやっていたら上手い下手はともかく「それなり」に人前で演奏を出来るようなってきました。人前で演奏できるようになった節目というのはわかりませんが、とりあえず好きで続けていたらそういう機会が出来たのです。

楽器でも文章でもなんでも好きで続けていたら、どこかで人前で評価されるのかもしれないと期待とそれと同じくらいの緊張をもって続けていきたいものです。

 

 「明日は今日よりずっといい日になる」と手放しで信じるのは少しいただけませんが、そうとでも思っていないと、明日の向こうを見据えて進んでいこうという気分になれません。日々が過ぎると季節も巡る。季節は巡るものではなく望むものであり、冬がきたら春が来るんですよと季節の向こうに希望を持つことで移り変わるのではないでしょうか。本人が望まないのなら冬は冬のまま心に残り続けてしまう。

裏切られようが人生に絶望しようが本人が望むのならきっと明日はいい日になると信じてやまないと思わせる主人公がユーモラスでステキな小説「夏への扉」。

 

ーぼくが飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探し始める。家にたくさんあるドアのどれかが夏に通じていると信じているのだ。そしてこのぼくもまた、ピートと同じように夏への扉を探していた。(本作内容)

 

 主人公の一人称の語り口が場面場面を感情的に切り取っていて、翻訳の素晴らしさもも相まって、三百五十頁ほどを一晩で読みきってしまいました。1960年代に書かれた小説なのですが作者の先見の明とでも言うのでしょうか、未来への希望と予見が素晴らしいなとも思えます。お涙頂戴の感動小説だとか人生観に強い影響を残す類の本ではないのですが、読後には心の中に暖かさが感じられふと口の端が持ち上がってしまうような本です。

Science Fictionというだけあり、現実には考えられないような画期的で科学的で首尾の良い流れも出てきます。読む人によっては都合が良すぎると面白みを欠いてしまうのではないでしょうか。けれども小説なんていうのは大体がご都合主義で、作者にとって都合のいい展開が広げられてこその物語だと思います。そこをいちいち食ってかかっていては退屈な時間を自ら増やしてしまうだけでしょう。

 

ーでもピートはまともな猫なので、外に行くほうが好きだし、家中のドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという信念をぜったい曲げようとしない。そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。(「夏への扉」作中346p)

 

 ピートは家中のドアがきっと”夏への扉”につづいていると信じている。扉をあけてみても懲りずに。こんな風に可能性を信じ続けることが出来ることこそが強さだと思います。諦めない逃げ出さないという選択肢は無く、絶対に”夏への扉”があると信じぬける強さこそが明日は今日よりずっといい日になると言える強さなのでしょう。やり直しのきかない人生だからこそ、望むものに焦点を定め続けることが出来たなら。私でも、たかがか四半世紀足らずの人生ですが、その強さがあればなと思うことがあります。もしくはきっと半世紀生きようが同じようなことを思っているのでしょう。

私もピートが正しいと思います。そして羨ましくもあります。

 

 猫を愛するすべてのひとたちに。と冒頭に書かれているのですが、思いっきり猫の描写があるわけでもないので、猫を愛していても犬を愛しても、きのこ派でもたけのこ派でも関係なく読める小説です。先ほど書いたように、メッセージ性の強い物語ではありませんが読みやすいので、何か読んでみたいと思っている方は是非一度手に取ってみてください。

自分が何ものであるか、もう一度考えよう


Hetain Patel: Who am I? Think again - YouTube

 

 「自分って何だろう」と考えたことは誰しもあるはず。特に中学二年生ぐらいの男の子だったら、こんな問いを真剣に考えて「俺は他の人と違う」と根拠の無い自信からややこしいふるまいや思想をひけらかしてしまうような時期ってあったんじゃないでしょうか。

こじらせた思想に取り込まれて、他人と違うことに価値を見出したり、個性化を目指す余りの没個性化。その反面、他の人と同じであることに安心感を覚えることもある。なんとも矛盾した自分自身です。

 

 私は他の人よりも中身の無い薄っぺらい人間なのではないだろうかと思うことが多分にあります。何かに怒ったり、悲しんだり、同情できるといった感情面において他の人たちは非常に豊かで、そう感じている自分自身がいるのだなぁと強く感じます。それがとても羨ましく思えます。

中身がスッカラカンなのかなと思っている節があり、だから就職活動でも自己PRをしてくださいなんて言われると、何も言うことが無いじゃねえかという所でいつも止まってしまい、結局でっちあげたような話を作って喋っていても手応えが無い、自分がいない、だからまったくうまくいかなかったのでしょうね。

自分探しの達人の私からすると、自分探しなんて言うものはただ単に「現状の私自身を肯定する理解者」を求めている。恋人や友人、尊敬できる人あるいは親など、そういった理解者が少ないと自己認識の軸となるものが形成し難い。

ややもすると、性的な干渉に依存してしまう人とは性交渉を通して自分が必要とされると勘違いし傾倒してしまう……という印象が有る人が数人いました。インスタントな欲求を求められる事に対して自己肯定を履き違えると「自分は必要とされている」と勘違いして感情や欲望に依存してしまうケースがあるんじゃないかな。

 

話が大分それましたが、「自分って何だろう」とは誰しも持つ疑問です。暇つぶしにTEDで動画を見ていたら、その問いかけに対しての問題提起をしている動画があったので興味を持ちました。

ーEmpty your mind. Be formless,shapeless, like water...... Be water, friend.

 

 講演中にブルース・リーの言葉を引用しているのが、ありきたりですが、ステキだなと思いました。普段の私達の振る舞いや考えというものは、他者に対峙したときに、その場その場で問題が起きないよう、あるいは問題を解決するように物事を選んでいきます。社会的であるとか友好的であるあるいは批判的であるというのは、そういう風に振る舞おうとしているのであり、私自身であるとは言い難いのではないか。これの焦点は「そう思われるようにしている」ことであって、社会的だとか友好的だとかあるいは批判的であるように思わせようとしている。ここになかなかにディープな問いかけが潜んでいる

 

 心を空っぽにして、姿も形も水のように無くす。カップに注がればカップの形に。急須に注げば急須の形になる。そんな風に思想も行動も変幻自在であるのが<私>であり、確固とした<私>自身ってあるのかなと今のところは感じることが多いです。それが私自身の自己肯定にも繋がる考えになっているのは払拭できない所です。

 そんな私でも持ち物や音楽に対してこだわりを持つことぐらいはあります。私なりにこだわりを持つって考えると、愛せるかどうかってことなんじゃないでしょうか。家に帰って部屋に入ったときに愛せるものがあると自然と嬉しくなれる。綺麗で整っている気に入っただけの人をパートナーにしたいというよりも、ただ単に理由がわからないけれど愛せる人をパートナーにしたい、という風に愛せるものを手元に置いておきたい。そしてそれが自己肯定になりえる。

 

 根本に自分自身はあるのでしょうけれども、私の考えが及ぶ範囲での確固とした<私>というのはまだまだ掴めそうにありません。他人は自分の鏡、色んな人と出会って色んな鏡を使って自分を映しだしてみたい。自分が何ものであるかもう一度考えるのなら考えるために出来ることも合わせて考えていきたいです。

悲しみよこんにちわ

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

  今宵は星が見えない空だけれど、満月が煌々と輝いております。街灯の無い通りを歩いていても、明るく感じますね。私が生まれてからでも科学の発展により便利な世の中になっていると実感する一方で、空を眺める、星を見る、月を見つめるなんて行為はおそらく二千年前の人たちと同じようにしているとなんだか不思議です。

二千年前も前から同じように行われていることって、たくさんあると思います。眺めるなんて行為の他に恋愛に関しても同じよう。紀元前の哲学者プラトンはこう言っています。

ー恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられる。

 

 今も昔も、対象が何であれ愛だとか恋だとかは、狂気じみたものであると共に幸いだと思いこめるもののために神々から授かるもの。そんな愛だとか恋だとかの、狂気じみた面を表層化した若き乙女の文学者サガンの記した「悲しみよこんにちわ」一八歳の少女が書いたとは思えない。言うなら繊細な少女の心理を描いた小説です。

 

ー若く美貌の父親の再婚を父の愛人と自分の恋人を使って妨害し、聡明で魅力的なあいての 女性を死においやるセシル……。太陽がきらめく、美しい南仏の海岸を舞台に、青春期特有の残酷さをもつ少女の感傷に満ちた高資金、愛情の独占欲、完璧なものへの反撥などの微妙な心理を描く。(本作内容)

 

 作中における父親への愛情とは、今まで通りの生活を愛する自分自身、ひいては自分自身を愛することだと感じられます。いわば私達の平穏な生活を邪魔立てするのなら確固として許されざる行為であり、それに対しての復讐ともとれる、少女の無邪気、あるいは無知とも言える、残酷さが記されている。

 

ーものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しいい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから、私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私を覆いかぶさって、私を他の人たちから離れさせる。(「悲しみよこんにちわ」作中p6)

 

 私の感じるそれは「悲しみ」と言っていいのでしょうか。それは個人的であり、利己的であり、エゴイズムさえも感じるさせる勝手気ままな感情であり、悲しみと言うには下らない、よくある感情なのかはたと考えさせられる一節でもあります。物語の少女は、そういった気持を抱いたまま、最愛の人の最愛の人を死に至らせてしまう。失ったことへの気付きはもはや手遅れであり、失ったことが悲しみとして心に刻み込まれる。悲しみを受け入れられることとは、大人になることなのか、あるいは少女を、少年を、忘れることなのでしょうか。

大人と子どもを画一化させるものとは何か。何事にも心が揺れ動かない人は存在しない。そういう点では皆平等である。年齢的にも精神的にも大人になっても完全にはなり得ない。それを理解しているかどうか。

 思いやりという言葉は一見すると素晴らしい言葉なのですが、危うくするとただ単に当人にとって都合の良いことだけになってしまう。あるいは過ぎてしまうと価値観の押し付けになってしまう、その線引きをどう捉えるか。これは単に「想像力」とも言えるかもしれません。

大人になるとは「想像力を人に向けられるようになる」ことも含んでいるのかもしれない。

 想像力を自分にだけ向けていた少女は、悲しみと向き合う結果になってしまった。私も大概若いですが、さらに若さの渦中にいるリアルを描いた強烈な小説でした。これを一八歳が書いた、というか一八歳だからこそ書けたのかと納得もしてしまいます。

 

言葉と無意識

 

言葉と無意識 (講談社現代新書)

言葉と無意識 (講談社現代新書)

 

    書物や芸術、あるいは人でもいい。それらと対峙するときに最も大事な行為は「咀嚼すること」それは自分の感覚で触れて、自分の言葉で理解すること。そういった過程を経て自身の思考、また大きな枠組で捉えようとするのなら、人生における羅針盤になるのではないでしょうか。今回は丸山圭三郎著「言葉と無意識」です。きちんと勉強している方からしたら、今更読んだのかとなってしまいますね。

 

ー現在思想の問いは、言葉の問題に収斂する。世界を分節し、文化を形成する「言葉」は無意識の深みで、どのように流動しているか?光の輝きと闇の豊穣が混交する無限の領域を探照する知的冒険の書。(本作内容)

 

  哲学書・思想書、そういった類のものを読むことにどれほどの意味があるのかはわかりません。社会的に生きようとするのなら、むしろこういったものは毒を持っていることも含め、実務に直結しないのだから不必要とも言えるかもしれない。けれども、嘘でもいいから社会的生活と個人的生活の呼応と調和をはかろうとする行為の助言のようなものを見つけ出そうとするのなら、私には必要なのだと依存めいた期待を込めて探求はしていきたい。

 

 文化的である人類の歴史を振り返れば、私が抱くような疑問というのは何十年も前に、あるいは二千年以上前の遠い国で議論され、一つの帰結を導き出していることを考えると、それらに触れずにいるのは、生きる上での徒労であり、私が悩むこと自体は空虚な時間を過ごす事に他ならない。だったら手っ取り早く満足しようがしまいが、それら歴史上の偉人達が通った轍を踏みしめていくことで自身も同じ思考過程を辿っているかのような錯覚をすることで慰みになるのなら、辿ろうとする試みには何らかの意味があり、結果がついてくるものだと信じて止まない。

何も確固たる基盤となるものが無い私だからこそ、「引用」でもって、自分の思考が求める問いかけへの対応を渇望する。現時点では先人達の言葉を「引用」することでしか、何ものも語られない段階であり、私が何かを語り得るとすれば、最も個人的である所の、「私が何を感じたか」のみでしか無く、それ以外の言葉は全て借り物でしかない。

 

 日常的に何気なく使っている「言葉」自分の行動・思考・意図を表すため自在に使いこなしているつもりでありながら、かえってこの「言葉」によって振り回されている。曰く「私が何を感じたか」という事自体も「言葉」無しでは、あるいは芸術無しでは、表現し共有することが出来ない。つまるところ私の心は「言葉」にとらわれていると言えるのかもしれない。私の想い出なるものがあるとするなら、それは一つ一つの記憶を丁寧に扱いながらも乱暴にラベリングしていく行為であり、そんな事に何の意味があるのか時々わからなくなる。「言葉」に縛られているという実感を拭い去る事が出来ない。

「言葉」に対しての感触があるとするのなら、「言葉」による名付けは世界を分節化する。分節化とは、曰く変えがたき生身の存在一般としか言えないこの”何もの”かに亀裂を入れて、”あれ”と”これ”との区別をつけること。我々が通常使う「言葉」=ロゴスが世界を分節化するだけなく、もっと深層にあって普段は知覚されないもう一つの言葉=ロゴスたる”パトス”なるものがあり、それもまた表層のロゴスとぶつかり、諸々のロゴスがせめぎあいながら、分節化の網の目が間断なく世界に張り巡らされていく。

言ってしまえば「ロゴス」とは<頭>であり、パトスとは<気持ち>である。

はたして、人は<頭>と<気持ち>、<理性>と<感性>、<合理>と<非合理>に引き裂かれた矛盾的存在なのだろうか。あるいはまた、こうした相反するかに見える二つのものは、実は人間の精神と体のように、決して分けることのできない一体のものなのだろうか。

頭じゃわかっているんだが気持ちが私をひょんな方向へ駆り立てていってしまう事自体に悩んでしまうってことですかね。そんな矛盾した行為を平然としてしまうのに、疑問を挟まないわけにはいきません。

 

 長くなりそうなので、この辺で切り上げますが、言葉を使役するヒトであるからこそ、その言葉から逃れ得ることできない。なら真摯にそいつと向き合っていってやろうじゃねえかというヤケになった気持ちがありまして、その一環でこの本と格闘しています。せいぜい二百頁ほどですが、理解するには時間と距離が必要になります。

まだまだ他者が介在するレベルでの言葉をつかう、たとえばコミュニケーションだとか、にその気持は適応されませんがそういった心持ちではあります。

夢のなかの夢

 

夢のなかの夢 (岩波文庫)

夢のなかの夢 (岩波文庫)

 

  一日が終わって、布団をまとって、瞼を閉じて、眠る。その時に見る夢とは何なのでしょうか。他人の夢の解釈者ジークムント・フロイトならなんらかの意味を見出してくれるのでしょうね。

想像を膨らますなら、夢って違う世界の自分が見ている景色を垣間見ること。眠って意識がどこか外に届いたときに、違う世界に生きている自分の生活を覗けるのではないでしょうか。豪華絢爛な建物で優雅に踊っているかもしれない私、高架下で吐瀉物をまき散らして呪詛にも似た言葉を世界に投げかけているしれない私。

自分以外には見れないからこそ、嘘か本当かわからない夢の中身。自分の愛する芸術家たちの夢を知りたいという思いに幾度となく駆られたイタリアの文学者タブッキの「夢のなかの夢」彼が想像した、ほんとうの、嘘の夢。

ーオウディウス、ラブレー、カラヴァッジョ、ランボー、スティーヴンソン、ペソアなど、過去の巨匠が見たかもしれない夢を、現代作家タブッキーが夢想し描く二十の短編。夢と夢が呼び交わし、二重写しの不思議な映像を作り出す。幻想の極北。(本作内容)

 

 私が見る夢、人が見る夢。それは言葉で夢の世界の写実を試みようとも、本当か嘘の判断が出来ないもの。この世で唯一と言ってもいいほどの自分事。そんな、人の夢を思い描くこととは、その人自身を想像する事に他ならない。

タブッキが描いた「夢のなかの夢」は、夢のほかに何一つ物語がない。言い換えるなら、これは物語のなかの夢ではなく、夢の物語です。語り手のさりげない嘘の身振りであり、一分の隙もない仮構の創造でもあります。嘘か本当か確認のしようがないからこそ、肯定も否定もできない。

 

 夢を題材に扱った話はたくさんあります。私が真っ先に思いついたのは荘士の「胡蝶の夢

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。

俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

(「胡蝶の夢」書き下し文より)

 

 自分が見ているものは、虚構なのか事実なのか。夢なのか現実なのか。そんなことはわからねえけど、どっちも同じよね。生きていくってそんなもんだ。という感じのお話です。

夢とはそのまま、物語と言い換えていいのかもしれません。何を示唆するのか意味するのかなんてどうでもよくて、誰にも真否を問えないからこそどこまでも広がっていける物語。勝手気ままに荒唐無稽であろうと、どれほどもっともらしかろうと、夢のリアリティを受け入れることからしか夢の中の夢には加われません。そう思ってこの閉ざされた夢の物語を読むことしか私には出来ません。

 

 怖い夢、ステキな夢、正夢、色々な夢がありますが、それらに何の意味があるのかわかりません。けれどもステキな夢を見た日はなんとなく一日良い気分でいられたり、怖い夢を見てしまうとどことなく気持ちに分厚い雲がかかってるかのようにどんよりとしてしまう。あるいは眠るときに今日はどんな夢を見るかななんて思えること自体幸せなことかもしれませんね。

  

  どうでもいいことですが英語で「おやすみなさい」にあたる文句 "Have a nice dream"ってステキな挨拶だと思います。いい夢見てくださいね。