コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

それからはスープのことばかり考えて暮らした

 

それからはスープのことばかり考えて暮らした

それからはスープのことばかり考えて暮らした

 

  「丁寧に生きる」という言葉を最近ちらほら見かけます。生きることを丁寧に扱うなんて、いったいどういう意味なんでしょうか。視点を変えてみると、丁寧に生きていきたいと考える人が多くなっているのでしょうかね。ありのままにものを見る。時間に縛られない。こういった事がいわゆる「丁寧に生きる」らしいのですが、それって丁寧とかじゃなくて、生きることそのものじゃないでしょうか。わざわざ、言うのだからこそ、そうありたいと望むんですね。

 あえて言うなら「丁寧に生きている」人たちを垣間みたいのなら、こんなお話がありますよと提案できるかもしれません。吉田篤弘さんの本「それからはスープのことばかり考えて暮らした」

路面電車が走る町に越して来た青年が出会う人々。商店街のはずれのサンドイッチ店「トロワ」の店主と息子。アパートの屋根裏に住むマダム。隣町の映画館「月舟シネマ」のポップコーン売り。銀幕の女優に恋をした青年は時をこえてひとりの女性とめぐり会う―。いくつもの人生がとけあった「名前のないスープ」をめぐる、ささやかであたたかい物語。(本作内容)

 

 別段、特別なことがおきる話でもありませんが、平々凡々のらりくらりと生きている語り手のまわりにいる人たちと、それとスープのこと、あとはなんでしょうか。とにかくそういったお話です。掴みどころのないけれども、丁寧に仕込まれた、深み入った、決して大味でない、繊細でささやかなスープみたいお話です。

 

ー「でも、おいしいスープのつくり方を知っていると、どんなときでも同じようにおいしかった。これがわたしの見つけた本当に本当のこと。だから、何よりレシピに忠実につくることが大切なんです。」(「それからはスープのことばかり考えて暮らした」作中p196)

 

 作中のおばあさんがこう言っていました。もちろんスープだけじゃなくて、本当に本当のことってたくさんあると思います。レシピに忠実に作ることは丁寧にちゃんと作ること。それさえ知っていればどんなときでも同じようにおいしい。そんなたくさんある本当に本当のことを私達はどれだけ知っているのでしょうか。私は不器用ながらにそれを知りたいなと思って色んな本を読んでいるのかなとふと頭の中が立ち止まってしまいました。そんな素晴らしい方法が本の中に隠されているとは思いませんけれども。けど、きっと、どこかで気づく材料にはなってくれるのでしょうか。

 

 「丁寧に生きる」ことはまあどうでもよくって、本当に本当のことをいくつか知っているのは大事だと思います。たとえば、スープを作るにしても、コーヒーを淹れるにしても。

この本を読んでいて、ふわふわとゆっくりと時間が流れるような、あるいは時計を進めて皆より自分の時間を先取りしちゃっているような、丁寧な生き方をしている人たちに対してステキだなと思いました。けれども、そんな生き方はしようとしてするもんじゃなくて、生きているうちにそうなっていくのかなとも思います。

皆さんはどんな生き方をしているのでしょうか。

老人と海

 

老人と海 (新潮文庫)

老人と海 (新潮文庫)

 

  本を読んだ時に、「男性的」だとか「女性的」な印象を受けます。紛れもなく男性にしか書けないなと感付かせるもの、どうしようもなく、私からすると別の世界にしか見えない、女性にしか書けないもの。性別による視点の違いというのは、理解し切れないが、感覚においてのみ、汲み取れます。

 

 ヘミングウェイ著「老人と海」も男性的な作品だなと感じました。男性的であるけれども、私には未だわからない、タフで屈強で自分の弱さをも愛するハードボイルド"的"な作品です。

キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。(本作内容)

 

 どんな内容なのか。と尋ねられるとこの本作内容の通りです以外に言いようのない内容です。なのに、老漁夫サンチャゴの人生を垣間見させられる。大海原でカジキマグロと戦い続ける老人が目の前にいる。徹底的なまでの場面描写、気がつけば自分も船に乗っているかのように、波に揺られてしまいます。

アメリカ文学をいくつか読んだことへの感想ですが、本一冊がジェットコースターみたいだなと感じました。物語の終盤に差し掛かるまで、まだかまだかと退屈しそうになりながらも心のどこかでドキドキしながら、昇り続ける、話が進んでいく。クライマックスになると猛烈なスピードで話が進んでいく。右へ左へ心が放り投げられそうになりながら。そして終わりに残るものはなんとも言えない爽快感と、読む前と読んだ後では世界が若干違って見えるような読後感。この感覚を今まで一番味わったのはダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」でしたが、それと同じような感覚が「老人と海」にもありました。

 

 正直な所、途中話が単調に感じられ読むのをやめようかなと思う所もありました。けれども最後の一文まで、その一文を読んだら、言葉にできない、そうとしか言えない、心の動きが感じられました。

大海原に出て、自分を運んでいる船よりも大きなカジキマグロと四昼夜もの格闘をし、挙句には獲物を奪われる。体も心も、かじり取られ、満身創痍で帰路に着いた老人はベッドで俯せに長く眠り続けます。それは死を予感させるものではなく、老人が子どもの頃に見た景色の夢を見る。老人は諦めたのではなく、ただ疲れたから眠っているだけ。彼はきっと、翌朝にも同じように漁に出ているのではないかと示唆させる夢。何かを失ったかのように見せながらも何も変わらない。老人は時に孤独で、時にここに誰かいてくれたらなと思い、老漁夫らしく、人間らしく生き続けていくのかなと。

 

 この本を読んで、何に重きを置くかで読んだ人の、一つの人生観のようなものが図られるのかもしれないなと思いました。私が一番感銘を受けたのは「老人の見ている夢」です。だからこそ、最後の一文に高揚感を抱く事ができたのです。

こころから言葉へ

 

こころから言葉へ

こころから言葉へ

 

 働き初めてようやく四ヶ月。特に問題無く毎日仕事に通っております。以前の生活では考えられないことですが、朝起きて仕事に向かい陽が沈む頃に家に着く。循環としては余り面白くないですが給料を頂いている身としては多くは望みません。そろそろ仕事を任せられはじめて「責任」という二文字がつきまとい始めました。時たま煩わしい気分になってしまいますが、そんなことを言ってられないと考えられるぐらいには、社会的になってきたはずです。

暦が春を告げる三月。季春の時期になりました。もう少し暖かさを感じさせてくれてもいいんじゃないでしょうか。

 

 批評界の巨人と評される吉本隆明さんと元フォーククルセイダーズでもあり精神科医でもある北山修さんとの対談本「こころから言葉へ」。二人の扱うテーマはとても大きく、字面を追って理解しようとするだけで、やり取りに対して自分の問題提起ができないくらいに中身が濃厚な本です。

ー思想家と精神科の医師の十時間にわたる対談、人間存在の本質を為すこころと言葉の起源から始まり、タブーの構造、団塊の世代の評価と未来、総中流化の病理へと進む。身近な問題に鋭く切り込んだスリリングな思索の交換。(本作内容)

  

 言葉の成り立ちから、現代社会に対しての二人の思惑が垣間見えて、一九九三年にやり取りされた内容ながらも、さながら予言のように今の日本での問題を予見していたのかなと頷くばかりでした。こころの在りようには強い感心を抱くばかりです。

 

ー吉本「(中略)ところが第三次産業といいますか、流通業、娯楽業、教育業、医療のような分野で働いている人は、六、七割になっていまして、一時間働いても明瞭な達成感、目に見える成果が感じられないわけです。いくら働いたからどうなったかというのは、すこぶる無形の達成しかないものだから、そういうところからたぶん、精神的な障害がこれからの主たる公害病になるだろうと考えたわけです。(中略)」(「こころから言葉へ」作中p25)

 

 「精神的な障害がこれからの主たる公害病になるだろう」昨今でも社会人としての大きな問題として扱われる鬱病というのは、こういった仕事に対して目に見えた達成感が無いことから自己肯定が難しくなっているのではないでしょうか。知人や身内にも鬱病になった人がいるから精神的な障害というものは考えざるを得ない環境にありました。何が原因なんだろう?と考えると、自分がやった成果に対して自己肯定がし難いことも影響しているのかなと思います。製造業なら一日にこれだけ「自分がつくった」として成果が得やすいですが、そういった見えにくいと「こんなことして一体なにの意味・意義があるのか?」という風に自問自答し、自身の存在と仕事のそれを混同して考えてしまい、精神にまで影響してしまうのでしょうか。その辺りを割り切れる強さがあるのなら問題はありませんが、それほどの強さを持っている人というのは周りをみても、私自身も含めて、多くはないです。

流通や娯楽、医療と言った第三次産業では、欧米の考え方を後追いする形で日本に取り入れられていると感じます。簡単に理解しようとすると、仕事と私生活の割り切り方が関係しているのではないかなと思います。農耕民族である日本人だと、私生活に関する、例えば季節や天候というのは、そのまま収穫物に影響してしまいます。つまり私生活と仕事(農耕)を切り離す事は、どうしても出来ない事です。仕事の割り切りというのは難しくなり、仕事=生活という考えになってしまう所があります。農耕民族でない人々の暮らしと言うものを余り詳しくは知りません。ですが農耕民族であった日本人としての自身を考えると割り切りが下手だなと思える所が多くあります。そういった文化的側面は日本に根付いているものなので、切り離すことが難しい事だと感じます。

 

 精神の問題というのは、文化的側面の他に、言葉や物事の受け方によって大きく関係してきます。軽い言葉や重い言葉が突き刺さってしまう。人にああ言われてこう言われて傷ついてしまう人たちがいます。例えば恥の感覚で圧倒されたり、自分の言ったことをあとで人がどう思うか悩んでしまう人。こういったものは言葉の重さというか「意味の牢獄」に閉じ込められてしまっているのではないでしょうか。「意味の牢獄」の格子の中に囚われないように、あえて言うなら距離、のようなものを測れる割り切りも必要になってくる。言われた事に対して、どう捉えるかを真剣になりすぎてしまうと、自らその牢獄に入り込んでしまい、迷宮のように抜け出せなくなる。「意味の牢獄」から距離を取るとはどういうことかというと、それは言葉の軽さに巡りあうことです。つまり遊べるようになること、冗談が楽しめたり、言葉のやり取りをゲームのように体験出来るようになること、こういったことが言うならば、治癒であるわけです。

 

 言葉とこころの、距離のようなものというのを、私が好きな二人が対談しているというだけでも本当に嬉しい話し合いです。あっさりとやり取りしているのですが、なかなかに重たい内容でした。このように軽い言葉でやり取りできているのは、さすがとしか言いようがありません。おもむろに開いたページを見ただけでも、深い洞察に納得するばかりです。しばらく置いてからまた手に取ろうと思わせる本でした。

仮面の告白

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

  ただ書いてあることが全てではなく、書いていないことにこそ作者の意図あるいは本音の告白のようなものが見え隠れする作品というのは存在しています。それは私が勝手に理解の深度の是非は別として「これは自分にしかわからない」とニヒリズムにも似た理解もしくは錯覚を示そうとさせうる。

三島由紀夫の「仮面の告白」はこんな私にでも「これは自分にしかわからない」と勘違いさせる毒を秘めた本でした。

 

ー女性に対して不能であることを発見した青年は、幼年時代からの自分の姿を丹念に追求し、“否定に呪われたナルシシズム"を読者の前にさらけだす。三島由紀夫の文学的出発をなすばかりでなく、その後の生涯と、作家活動のすべてを予見し包含した、戦後日本文学の代表的名作。(本作内容)

 

 三島由紀夫の著作を何冊か読んだ時に「この人はどこまでも男性的だなぁ」と印象を持ちました。仮面の告白を読んで、より一層確信しました。内容は三島由紀夫自身の性的趣向を語る……という風に理解してもいいのでしょうか。

 紹介には自身のナルシシズムをさらけだす、私小説であると言われていますが、どうも納得がいかない。「仮面の告白」と言うだけあり、仮面をつけた自身の告白をしているような違和感を覚えました。それが何なのかはうまく説明できないのですけれど。

 

 実際に本人からそういった告白はなされていないので真偽のほどはわかりませんが、三島由紀夫自身の断片的な情報として同性愛者だったと耳にしている人も少なくないでしょう。けれども本当にそうだったのでしょうか。この本からは同性愛者と言うよりも、肉体に秘められた美に対して言葉をあてはめるために、同性愛者的な目線を拝借し、評価をしようとしていたと感じます。

主人公は、たくましい同性に愛的感情を抱く描写が作品の隅々にまで広がっております。ただその愛的な感情や視線の描写が余りにも上手すぎる。異性に対してへの、一般的にはノーマルとされる愛を表現するにしても、ここまで語り得る事ができるのか。著者が異性愛者であり、想像に過ぎないからこそ、現実的でないからこそ、このように同性愛者としての見地を夢に描くことが出来るのではないでしょうか。私達が為すような恋は、余りにも現実的であるからこそ、余りにも言葉の届かない陳腐な表現になってしまう。いくら言葉を用いようが、それは心痛と狂喜がが込められた矛盾した言葉になってしまう。万人の「これが愛だ」と語り得た表現が存在しないように。

ただ後半部の異性の・・・恋仲とのやり取りには、今までの夢想的に同性に対する性愛を描写していたのと、一変し、現実に足をつけながらも空を羽ばたこうと足掻いている「愛的な表現」になっています。そこまで読んで自分の中にあった同性愛者としての描写への違和感に少しだけ納得がいきました。

 文学とは愛に対しての言葉を苦悶しながらひねり出しているのか。あるいは文学とは一つには感情的表現であるのか。

 

 私の感じたこと、「これは自分にしかわからない」というのは三島由紀のこの小説を通して「本人の感じている苦渋かのように見せて、何事かを示唆させている」のではないのか。抽象的ですが、どうなのでしょうか。

金閣寺」にしても「仮面の告白」にしてもただ三島由紀夫が言いたかったことは「戦後の日本をなんとかしなければいけない」という愛国心のようなもの、それ故に駐屯地にての切腹に至ったのではないか。

彼の政治的な行動に対して、私は何も言えませんが、そういった印象を受けてしまいました。

 

 この本は嘘の告白ではありません。ただ、あくまでも「仮面の告白」であり、それが何を暗喩しているのか、仮面と素顔を分けているのか、わかりません。今の私と同じ年代にしてこんな美しく素晴らしい文章が書けるのかと泣きたくなるような気持ちになってしまいました。

本当に美しい文章に触れたいのなら、とにもかくにも三島由紀夫を読んでみてほしいです。ただただ「どこまでも男性的」で美しい文章を書く作家です。

他力と自力

 二月の初め頃は五時頃には日が落ちて辺りは暗くなっていたのに、今では明るい空が見受けられます。仕事の帰り道も、家に向かわずにどこかに行きたくなりますがどこに行くわけでもなく、しばらくは落ち着いた日々が予感させられます。

 

 以前、会社の人がやり取りの中で「他力本願か!」と叱責されている場面がありました。その時から「他力本願」という言葉が引っかかっております。この場面で使われている意味では人任せなど余り良い意味ではありません。けれども「他力本願」って結構良い言葉だなと感じました。「他の力を本願する」人をあてにすると言うよりも、願う意味合いがあるのかなと。

辞書から意味を引っ張りだしてくると、

他力本願(たりきほんがん)

  1. 仏教用語で、阿弥陀仏が衆生を救済する本願のはたらき。浄土教・阿弥陀信仰の根本となる教義である。
  2. 人まかせ、他人依存、成り行き任せの意。

 

ここで焦点を当てたいのは1の意味。仏教用語としての「他力本願」

私が感じたのは、「他人の力」ではなく「他の力」仏教の浄土教で言うところの阿弥陀如来の力を指しているのでしょうか。

 

「他力本願」というと、一般には、他人任せという意味で広く使われています。。自助努力しない怠け者といった軽侮のニュアンスが含まれていたりもする。私なりにこの言葉を理解しようとするならば、「私達の誓い(本願)を達成せんとする阿弥陀仏(他力)の働きによってもたらされるのであって、私達凡夫のはからい(自力)には左右されない。けっして他人に何か変わってやってもらおうという話ではなく、私達人間はあくまでも阿弥陀仏のが彼岸から救済の手を差し伸べるのを待つしか無い、こういう限界をもった存在にすぎないという峻厳な認識を述べた言葉である。」

自分の出来る事をやれるだけやり前に進み、河のほとりまで辿り着いたけれども自力だけでは河を渡り切ることができない。その時にこそ彼岸にある他力を心の底から願うという意味合いではないでしょうか。自力と他力、同居し得ないようでいて、まったくそうではなく、自力は他力に促され、他力は自力をもって働きを見せる。

 

 もう少し都合よく広義に解釈しようとすると、私達が日常的に出会う人々と言うのは、縁があるからと言われます。縁というのは、運命とも言い換えられます。運命であるならば、神というものが存在するのならば、運命は神によって与えられた任であり、神の意思でもあると解釈できます。つまり他力、他人というのは神の意思により選ばれた縁(運命)であり、日常的に出会う人々の存在こそ自力を救済せしめるために存在する他力(運命)なのではないでしょうか。

神というのは方便です。私達が知覚し理解し得る範囲の外で起こりえる現象に対して名前をつけるとするならと便宜的に用いています。

これ以上の展開は人格を疑われかねないのでやめておきますが、そう考えると人の力をあてにするというのも肩の力を抜いて考えられるかもしれません。あるいは、もっと身近なこととして考えると人の力をあてにすることが出来るのは、その人を信頼できているからではないでしょうか。依存心というのも、私はこれを人間関係の不精であると考えますが、こういう風に当てはめて考えると悪く無い意味になり得るかもしれません。ただ依存するなら、もたれかかり方にもよるのでは、と払拭できない懸念もあります。

 

 あとは野となれ山となれ。自力でやれることはとことんやってから他力をあてにするようにしないといけませんね。ただあてにするだけというのは、まさしく生きる事の上での怠惰です。根拠の無い楽観というのは、思考停止に他ならず、私からすると死んでいるのと同義です。自分ができる事をやって、これ以上は一人で無理だと思える時にこそ他力本願、救済の手を差し伸べてもらう。

 こんなことを一年半親にニートで寄生していた私が言うのも何でしょうが、考え方と生き方は別のお話です。