コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

悲しみよこんにちわ

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

  今宵は星が見えない空だけれど、満月が煌々と輝いております。街灯の無い通りを歩いていても、明るく感じますね。私が生まれてからでも科学の発展により便利な世の中になっていると実感する一方で、空を眺める、星を見る、月を見つめるなんて行為はおそらく二千年前の人たちと同じようにしているとなんだか不思議です。

二千年前も前から同じように行われていることって、たくさんあると思います。眺めるなんて行為の他に恋愛に関しても同じよう。紀元前の哲学者プラトンはこう言っています。

ー恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられる。

 

 今も昔も、対象が何であれ愛だとか恋だとかは、狂気じみたものであると共に幸いだと思いこめるもののために神々から授かるもの。そんな愛だとか恋だとかの、狂気じみた面を表層化した若き乙女の文学者サガンの記した「悲しみよこんにちわ」一八歳の少女が書いたとは思えない。言うなら繊細な少女の心理を描いた小説です。

 

ー若く美貌の父親の再婚を父の愛人と自分の恋人を使って妨害し、聡明で魅力的なあいての 女性を死においやるセシル……。太陽がきらめく、美しい南仏の海岸を舞台に、青春期特有の残酷さをもつ少女の感傷に満ちた高資金、愛情の独占欲、完璧なものへの反撥などの微妙な心理を描く。(本作内容)

 

 作中における父親への愛情とは、今まで通りの生活を愛する自分自身、ひいては自分自身を愛することだと感じられます。いわば私達の平穏な生活を邪魔立てするのなら確固として許されざる行為であり、それに対しての復讐ともとれる、少女の無邪気、あるいは無知とも言える、残酷さが記されている。

 

ーものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しいい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから、私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私を覆いかぶさって、私を他の人たちから離れさせる。(「悲しみよこんにちわ」作中p6)

 

 私の感じるそれは「悲しみ」と言っていいのでしょうか。それは個人的であり、利己的であり、エゴイズムさえも感じるさせる勝手気ままな感情であり、悲しみと言うには下らない、よくある感情なのかはたと考えさせられる一節でもあります。物語の少女は、そういった気持を抱いたまま、最愛の人の最愛の人を死に至らせてしまう。失ったことへの気付きはもはや手遅れであり、失ったことが悲しみとして心に刻み込まれる。悲しみを受け入れられることとは、大人になることなのか、あるいは少女を、少年を、忘れることなのでしょうか。

大人と子どもを画一化させるものとは何か。何事にも心が揺れ動かない人は存在しない。そういう点では皆平等である。年齢的にも精神的にも大人になっても完全にはなり得ない。それを理解しているかどうか。

 思いやりという言葉は一見すると素晴らしい言葉なのですが、危うくするとただ単に当人にとって都合の良いことだけになってしまう。あるいは過ぎてしまうと価値観の押し付けになってしまう、その線引きをどう捉えるか。これは単に「想像力」とも言えるかもしれません。

大人になるとは「想像力を人に向けられるようになる」ことも含んでいるのかもしれない。

 想像力を自分にだけ向けていた少女は、悲しみと向き合う結果になってしまった。私も大概若いですが、さらに若さの渦中にいるリアルを描いた強烈な小説でした。これを一八歳が書いた、というか一八歳だからこそ書けたのかと納得もしてしまいます。