コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

仮面の告白

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

  ただ書いてあることが全てではなく、書いていないことにこそ作者の意図あるいは本音の告白のようなものが見え隠れする作品というのは存在しています。それは私が勝手に理解の深度の是非は別として「これは自分にしかわからない」とニヒリズムにも似た理解もしくは錯覚を示そうとさせうる。

三島由紀夫の「仮面の告白」はこんな私にでも「これは自分にしかわからない」と勘違いさせる毒を秘めた本でした。

 

ー女性に対して不能であることを発見した青年は、幼年時代からの自分の姿を丹念に追求し、“否定に呪われたナルシシズム"を読者の前にさらけだす。三島由紀夫の文学的出発をなすばかりでなく、その後の生涯と、作家活動のすべてを予見し包含した、戦後日本文学の代表的名作。(本作内容)

 

 三島由紀夫の著作を何冊か読んだ時に「この人はどこまでも男性的だなぁ」と印象を持ちました。仮面の告白を読んで、より一層確信しました。内容は三島由紀夫自身の性的趣向を語る……という風に理解してもいいのでしょうか。

 紹介には自身のナルシシズムをさらけだす、私小説であると言われていますが、どうも納得がいかない。「仮面の告白」と言うだけあり、仮面をつけた自身の告白をしているような違和感を覚えました。それが何なのかはうまく説明できないのですけれど。

 

 実際に本人からそういった告白はなされていないので真偽のほどはわかりませんが、三島由紀夫自身の断片的な情報として同性愛者だったと耳にしている人も少なくないでしょう。けれども本当にそうだったのでしょうか。この本からは同性愛者と言うよりも、肉体に秘められた美に対して言葉をあてはめるために、同性愛者的な目線を拝借し、評価をしようとしていたと感じます。

主人公は、たくましい同性に愛的感情を抱く描写が作品の隅々にまで広がっております。ただその愛的な感情や視線の描写が余りにも上手すぎる。異性に対してへの、一般的にはノーマルとされる愛を表現するにしても、ここまで語り得る事ができるのか。著者が異性愛者であり、想像に過ぎないからこそ、現実的でないからこそ、このように同性愛者としての見地を夢に描くことが出来るのではないでしょうか。私達が為すような恋は、余りにも現実的であるからこそ、余りにも言葉の届かない陳腐な表現になってしまう。いくら言葉を用いようが、それは心痛と狂喜がが込められた矛盾した言葉になってしまう。万人の「これが愛だ」と語り得た表現が存在しないように。

ただ後半部の異性の・・・恋仲とのやり取りには、今までの夢想的に同性に対する性愛を描写していたのと、一変し、現実に足をつけながらも空を羽ばたこうと足掻いている「愛的な表現」になっています。そこまで読んで自分の中にあった同性愛者としての描写への違和感に少しだけ納得がいきました。

 文学とは愛に対しての言葉を苦悶しながらひねり出しているのか。あるいは文学とは一つには感情的表現であるのか。

 

 私の感じたこと、「これは自分にしかわからない」というのは三島由紀のこの小説を通して「本人の感じている苦渋かのように見せて、何事かを示唆させている」のではないのか。抽象的ですが、どうなのでしょうか。

金閣寺」にしても「仮面の告白」にしてもただ三島由紀夫が言いたかったことは「戦後の日本をなんとかしなければいけない」という愛国心のようなもの、それ故に駐屯地にての切腹に至ったのではないか。

彼の政治的な行動に対して、私は何も言えませんが、そういった印象を受けてしまいました。

 

 この本は嘘の告白ではありません。ただ、あくまでも「仮面の告白」であり、それが何を暗喩しているのか、仮面と素顔を分けているのか、わかりません。今の私と同じ年代にしてこんな美しく素晴らしい文章が書けるのかと泣きたくなるような気持ちになってしまいました。

本当に美しい文章に触れたいのなら、とにもかくにも三島由紀夫を読んでみてほしいです。ただただ「どこまでも男性的」で美しい文章を書く作家です。