コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

他力と自力

 二月の初め頃は五時頃には日が落ちて辺りは暗くなっていたのに、今では明るい空が見受けられます。仕事の帰り道も、家に向かわずにどこかに行きたくなりますがどこに行くわけでもなく、しばらくは落ち着いた日々が予感させられます。

 

 以前、会社の人がやり取りの中で「他力本願か!」と叱責されている場面がありました。その時から「他力本願」という言葉が引っかかっております。この場面で使われている意味では人任せなど余り良い意味ではありません。けれども「他力本願」って結構良い言葉だなと感じました。「他の力を本願する」人をあてにすると言うよりも、願う意味合いがあるのかなと。

辞書から意味を引っ張りだしてくると、

他力本願(たりきほんがん)

  1. 仏教用語で、阿弥陀仏が衆生を救済する本願のはたらき。浄土教・阿弥陀信仰の根本となる教義である。
  2. 人まかせ、他人依存、成り行き任せの意。

 

ここで焦点を当てたいのは1の意味。仏教用語としての「他力本願」

私が感じたのは、「他人の力」ではなく「他の力」仏教の浄土教で言うところの阿弥陀如来の力を指しているのでしょうか。

 

「他力本願」というと、一般には、他人任せという意味で広く使われています。。自助努力しない怠け者といった軽侮のニュアンスが含まれていたりもする。私なりにこの言葉を理解しようとするならば、「私達の誓い(本願)を達成せんとする阿弥陀仏(他力)の働きによってもたらされるのであって、私達凡夫のはからい(自力)には左右されない。けっして他人に何か変わってやってもらおうという話ではなく、私達人間はあくまでも阿弥陀仏のが彼岸から救済の手を差し伸べるのを待つしか無い、こういう限界をもった存在にすぎないという峻厳な認識を述べた言葉である。」

自分の出来る事をやれるだけやり前に進み、河のほとりまで辿り着いたけれども自力だけでは河を渡り切ることができない。その時にこそ彼岸にある他力を心の底から願うという意味合いではないでしょうか。自力と他力、同居し得ないようでいて、まったくそうではなく、自力は他力に促され、他力は自力をもって働きを見せる。

 

 もう少し都合よく広義に解釈しようとすると、私達が日常的に出会う人々と言うのは、縁があるからと言われます。縁というのは、運命とも言い換えられます。運命であるならば、神というものが存在するのならば、運命は神によって与えられた任であり、神の意思でもあると解釈できます。つまり他力、他人というのは神の意思により選ばれた縁(運命)であり、日常的に出会う人々の存在こそ自力を救済せしめるために存在する他力(運命)なのではないでしょうか。

神というのは方便です。私達が知覚し理解し得る範囲の外で起こりえる現象に対して名前をつけるとするならと便宜的に用いています。

これ以上の展開は人格を疑われかねないのでやめておきますが、そう考えると人の力をあてにするというのも肩の力を抜いて考えられるかもしれません。あるいは、もっと身近なこととして考えると人の力をあてにすることが出来るのは、その人を信頼できているからではないでしょうか。依存心というのも、私はこれを人間関係の不精であると考えますが、こういう風に当てはめて考えると悪く無い意味になり得るかもしれません。ただ依存するなら、もたれかかり方にもよるのでは、と払拭できない懸念もあります。

 

 あとは野となれ山となれ。自力でやれることはとことんやってから他力をあてにするようにしないといけませんね。ただあてにするだけというのは、まさしく生きる事の上での怠惰です。根拠の無い楽観というのは、思考停止に他ならず、私からすると死んでいるのと同義です。自分ができる事をやって、これ以上は一人で無理だと思える時にこそ他力本願、救済の手を差し伸べてもらう。

 こんなことを一年半親にニートで寄生していた私が言うのも何でしょうが、考え方と生き方は別のお話です。