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コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

芸術とは何か


Isadora Duncan Dancers - YouTube

 

 今日はお昼からステキな来客があって、おもてなしのために、部屋の掃除やら愛犬のお風呂、上がったテンションが違う方向に向かってしまい急にランニングで5kmほど走ってしまってエネルギーを、お客さんが来られる前に使い果たしてしまいました。その後はゆったりとした楽しいお茶会や晩御飯を楽しめましたけれども。

 個人的には思った以上にステキな時間が一日に詰め込まれてしまい、明日からの出社への、気持ちのギアチェンジがうまくゆくのかと心配になっています。

 

 お家に来られた人たちに、新しく買ったオーディオを自慢していたら、その人達は別段音楽や音に強い関心をもっている訳では無いですがとても感受性豊かな人たちです。無条件にいい音や!!と納得してくれました。自慢出来てちょっと嬉しかったです。

 

 その時に「無条件に良い」と思ってしまうって何なのだろうなと思ってしまいました。

理屈抜きに素晴らしいと思う芸術っていったいなんやねんとも感じます。

 

 私は音楽が超好きです。No Music, No Lifeとは言いませんが、今自分の生活から音楽を取り上げられるとなると相当の苦痛に感じてしまうのは想像に難くありません。

今までの人生の選択肢、高校入試や大学入試あるいは形成されてきた人間関係なんていうものの基盤となるのは音楽が何らかの形で関わっているのは間違いないと言えます。結果として見るのなら、大学卒業後ニートを選んだ理由に繋がるコピーライターになりたい!と思うまでに(それはきちんと叶っていませんが)至った経緯も、やっぱり音楽が関わってきています。

 

 それほどまでに人生に良い影響も悪い影響も与えている音楽、あるいは芸術って何なのだろうと考えるのもそれに対する礼儀だとも言えます。

 

 (音楽も包括した)芸術とは何なのか。というのは人それぞれ解釈が違うのは当然です。明確な答えあるいは真理というものが無いので、ぶっちゃけ語りえないものになってしまいます。けれどもそれぞれが、それぞれの言葉で理解できるものだとは感じます。

私がなにかを言うなれば「生きることと美的経験、美的感覚の統合」のために芸術があるのではないのか。

 私達の生活の隅々には、意識の外であらゆる形態が常にいくつもの層で姿を表している。人間関係の場でも、絶え間なく多くのメッセージが意識されないままに行き交っており、私達が伝えようと意図するメッセージは、おのずと(メッセージ自体が)表出する意図されないメッセージにも包まれています。そのために、複数の段階で同時に発せられている(意図されているもの、意図されていないものを含めたもの)を交通整理する、標識が必要になってくる。

対話自体には、意識によってコントロールできにくい自律した信号の集まりがついてまわる。つまり言葉によるメッセージよりも、それに対する反応として位置づけられる、体感的なものに、人はより大きな信頼を置くものです。

これらを芸術(芸術作品)に結びつけると、こんな風に考えるのが適切なんじゃないかな?と確認できます。

「作品が内包するメッセージのどの要素が、芸術家の心のどこと結ばれているのか。」感受性豊かな批評家は、こんな風に芸術作品と、意識しようがしまいが、接しているのではないかな。

この意味合いでは、芸術というのは、わたしたちの意識の外で感じることを伝え合うやり取りみたいなものではないでしょうか。

 

 芸術作品が、芸術家の技能(腕前)を伝える場合も同じです。20世紀を代表するアメリカのダンサー”Isadora Duncan”の言葉を借りると

「この語りの意味が口で言えたら、躍る意味がなくなるでしょう。」

この発言を見た時に、今までの自分の人生を真っ向からぶん殴るような衝撃を受けました。いわば「だって躍る意味がないですわ。コトバのほうが素早くしかも明瞭に伝えられるはずですもの。」とも言えます。

 

 彼女の言葉から汲み取れる意味はこうです。

「もしこれがコトバで伝えられる種類のメッセージなら、躍る意味はないかもしれないけれど、これはそういうメッセージではありません。むしろコトバにしてしまうと嘘になってしまうものです。なぜなら(詩以外の)コトバに置き換えられるということは、それが意識的で意図的なメッセージだということを意味するわけで、この場合はそうでないから。」

Isadora Duncanが、そしてすべての芸術家が伝えようとしているメッセージは、むしろこんな内容ではないでしょうか。

「部分的に意識の外のメッセージをわたしなりにつくってみました。これを通して意識の外でのプレイ(遊戯活動)をやってみませんか。」あるいは「これは、意識と意識の外をつなぐインターフェイスについてのメッセージです。」

 

 もしかするとこれはあらゆる種類の”技能”の伝達は、常にこの類ではないでしょうか。

私達が熟達した表現に触れた時に、「すばらしい」と感じますが、それがどうだから「すばらしい」のか言葉にうまくできません。それは意識の外で形成された、意図されたコトバではないからです。

  

 芸術を語る行為というのは、言葉を紡げば紡ぐほどに本質的な意味合いから遠ざかっていきます。言うなれば、意味がないからこそ芸術は芸術なのではないでしょうか。

 

 商業と芸術の間には底の見えない暗い深い溝があると感じます。けれども中にはそこに、時代や環境に適した、ハシゴをひょいっとかけることが出来るような芸術家あるいは商業家がいるのも間違いないと感じます。自分自身をビジネスマンと捉えるか、アーティストと捉えるか、そこに自身が抽出した表現の経済的な価値を生み出すヒントがあるのではないか。

私はそんな土俵に立ってすらいないなと感じます。

 

 「生きることと美的経験、美的感覚の統合」のために芸術があるのならば、あらゆる(上質な)芸術というものは、自身の意識し得ない感覚に彩りを与えるものではないでしょうか。

精神の生態学

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