コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

良薬口に苦し毒も同じく

 ほんの少しだけ日が落ちるのがゆっくりになっているように感じます。まだまだ寒いので体の調子とはよく相談していきたいものです。

今日の帰り道に見える月は雲と雲のあいだから顏を出し、雲のマフラーをしているみたいでとってもステキでした。

 明日は満月です。満月の前日の月ってなんだか大きく見えるので目に留まってしまいます。

 

 最近友人から「何か面白い本はない?」と尋ねられることが多くあります。

読書好きと言うほど読まないけれども、月に何冊か手に取るぐらいではあるので、人に薦められるようなものもいくつか知っているつもりです。ただ正直なところ本を薦めるというのは苦手なんですね。

これは良い本だ!と思うようなものもたくさんあるのですが、それを人に薦めるとなるとどうしても何か抵抗めいたものを感じてしまいます。

 

 以前にある種の試みで、親しい友人に何冊か本を押し付けるような形で、この人が読んだらどう感じるのだろう?と思って貸したことがあります。今では本人達が読んだかどうかはどうでもよくて、のちになって考えてみたら我ながら不躾な行為をしたものだなと思ってしまいました。

 

 それは自分の言葉では届き得ない領域を人の言葉を借りて、補い、そしてそれが本人にどういった影響を考慮しない、どんな影響が読んだ本人にもたらすか保証できない、自分勝手な行為なんじゃないかなと思ってしまいます。それは本当に伝えたいのは私自身の言葉だったんじゃないのかなとも言えるかもしれません。それを本で誤魔化しているだけなんじゃないのかな、と。

 

 以前知り合いが、自ら手にとったある本を読んで精神疾患になるギリギリにまで自分を追い込んでしまったというのを目の当たりしてしまったことがあります。その本は素晴らしい傑作なんですが、それと同時に読む人によってはそこまで影響しかねない毒を持った本なんだなとも感じます。たかが本で?と思われますが、どうなのでしょう。

思想家・詩人でもある故・吉本隆明さんが自決された学生さんの葬式に出て、その両親に「あんたの書いたものなんか読まないで、大学でちゃんと勉強していれば、息子はこんなことにならなかったはずだ。」と言う風に責め立てられた経験があると仰っていました。ある種の思想が、本が、人をそこまでに至らせてしまうようなことは間違いなくあるんだろうなと思います。

 

 そんな影響をしてしまうようなものを、私自身がその人を判断して薦めるようなことは極力しないようにしていますが、そこは何も保証できないのが同時に恐ろしくもあります。

ただ、友人がこの本を読んだらどんな事を思うんだろう?というのはもの凄く興味のあることでもあります。同じ本を読んでまったく違う印象を受けるまでに至った事を考えるのはなぜだか好奇心が刺激されてしまいます。もう少し踏み込んで言うならば「私は君をこう判断した。だからこそ君に読んでほしい。」と言えます。それは利の面か毒の面どちらに焦点を当てているのかは定かではありませんが。

 

 本を読むことは、些細な悩みを吹き飛ばしてくれるような活力剤にもなれば自分の黒い部分に影響しかねない毒を持っている側面があると感じます。良くも悪くも今の私自身も色んな人や本や思想の利の部分や毒の部分に触れて出来上がっているのは否定し得ない事実です。

本に限らずあらゆる物事は毒の面と、利の部分を考え、向き合い、受け入れていかなければならない危うさを持ったものだと感じます。

 

 死ぬために生きているのか生きるために生きているのかを判断するかのように利と毒それぞれの魅力を受容していきたいですね。

 

真贋 (講談社文庫)

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