コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

自分が何ものであるか、もう一度考えよう


Hetain Patel: Who am I? Think again - YouTube

 

 「自分って何だろう」と考えたことは誰しもあるはず。特に中学二年生ぐらいの男の子だったら、こんな問いを真剣に考えて「俺は他の人と違う」と根拠の無い自信からややこしいふるまいや思想をひけらかしてしまうような時期ってあったんじゃないでしょうか。

こじらせた思想に取り込まれて、他人と違うことに価値を見出したり、個性化を目指す余りの没個性化。その反面、他の人と同じであることに安心感を覚えることもある。なんとも矛盾した自分自身です。

 

 私は他の人よりも中身の無い薄っぺらい人間なのではないだろうかと思うことが多分にあります。何かに怒ったり、悲しんだり、同情できるといった感情面において他の人たちは非常に豊かで、そう感じている自分自身がいるのだなぁと強く感じます。それがとても羨ましく思えます。

中身がスッカラカンなのかなと思っている節があり、だから就職活動でも自己PRをしてくださいなんて言われると、何も言うことが無いじゃねえかという所でいつも止まってしまい、結局でっちあげたような話を作って喋っていても手応えが無い、自分がいない、だからまったくうまくいかなかったのでしょうね。

自分探しの達人の私からすると、自分探しなんて言うものはただ単に「現状の私自身を肯定する理解者」を求めている。恋人や友人、尊敬できる人あるいは親など、そういった理解者が少ないと自己認識の軸となるものが形成し難い。

ややもすると、性的な干渉に依存してしまう人とは性交渉を通して自分が必要とされると勘違いし傾倒してしまう……という印象が有る人が数人いました。インスタントな欲求を求められる事に対して自己肯定を履き違えると「自分は必要とされている」と勘違いして感情や欲望に依存してしまうケースがあるんじゃないかな。

 

話が大分それましたが、「自分って何だろう」とは誰しも持つ疑問です。暇つぶしにTEDで動画を見ていたら、その問いかけに対しての問題提起をしている動画があったので興味を持ちました。

ーEmpty your mind. Be formless,shapeless, like water...... Be water, friend.

 

 講演中にブルース・リーの言葉を引用しているのが、ありきたりですが、ステキだなと思いました。普段の私達の振る舞いや考えというものは、他者に対峙したときに、その場その場で問題が起きないよう、あるいは問題を解決するように物事を選んでいきます。社会的であるとか友好的であるあるいは批判的であるというのは、そういう風に振る舞おうとしているのであり、私自身であるとは言い難いのではないか。これの焦点は「そう思われるようにしている」ことであって、社会的だとか友好的だとかあるいは批判的であるように思わせようとしている。ここになかなかにディープな問いかけが潜んでいる

 

 心を空っぽにして、姿も形も水のように無くす。カップに注がればカップの形に。急須に注げば急須の形になる。そんな風に思想も行動も変幻自在であるのが<私>であり、確固とした<私>自身ってあるのかなと今のところは感じることが多いです。それが私自身の自己肯定にも繋がる考えになっているのは払拭できない所です。

 そんな私でも持ち物や音楽に対してこだわりを持つことぐらいはあります。私なりにこだわりを持つって考えると、愛せるかどうかってことなんじゃないでしょうか。家に帰って部屋に入ったときに愛せるものがあると自然と嬉しくなれる。綺麗で整っている気に入っただけの人をパートナーにしたいというよりも、ただ単に理由がわからないけれど愛せる人をパートナーにしたい、という風に愛せるものを手元に置いておきたい。そしてそれが自己肯定になりえる。

 

 根本に自分自身はあるのでしょうけれども、私の考えが及ぶ範囲での確固とした<私>というのはまだまだ掴めそうにありません。他人は自分の鏡、色んな人と出会って色んな鏡を使って自分を映しだしてみたい。自分が何ものであるかもう一度考えるのなら考えるために出来ることも合わせて考えていきたいです。