読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

言葉と無意識

感想

 

言葉と無意識 (講談社現代新書)

言葉と無意識 (講談社現代新書)

 

    書物や芸術、あるいは人でもいい。それらと対峙するときに最も大事な行為は「咀嚼すること」それは自分の感覚で触れて、自分の言葉で理解すること。そういった過程を経て自身の思考、また大きな枠組で捉えようとするのなら、人生における羅針盤になるのではないでしょうか。今回は丸山圭三郎著「言葉と無意識」です。きちんと勉強している方からしたら、今更読んだのかとなってしまいますね。

 

ー現在思想の問いは、言葉の問題に収斂する。世界を分節し、文化を形成する「言葉」は無意識の深みで、どのように流動しているか?光の輝きと闇の豊穣が混交する無限の領域を探照する知的冒険の書。(本作内容)

 

  哲学書・思想書、そういった類のものを読むことにどれほどの意味があるのかはわかりません。社会的に生きようとするのなら、むしろこういったものは毒を持っていることも含め、実務に直結しないのだから不必要とも言えるかもしれない。けれども、嘘でもいいから社会的生活と個人的生活の呼応と調和をはかろうとする行為の助言のようなものを見つけ出そうとするのなら、私には必要なのだと依存めいた期待を込めて探求はしていきたい。

 

 文化的である人類の歴史を振り返れば、私が抱くような疑問というのは何十年も前に、あるいは二千年以上前の遠い国で議論され、一つの帰結を導き出していることを考えると、それらに触れずにいるのは、生きる上での徒労であり、私が悩むこと自体は空虚な時間を過ごす事に他ならない。だったら手っ取り早く満足しようがしまいが、それら歴史上の偉人達が通った轍を踏みしめていくことで自身も同じ思考過程を辿っているかのような錯覚をすることで慰みになるのなら、辿ろうとする試みには何らかの意味があり、結果がついてくるものだと信じて止まない。

何も確固たる基盤となるものが無い私だからこそ、「引用」でもって、自分の思考が求める問いかけへの対応を渇望する。現時点では先人達の言葉を「引用」することでしか、何ものも語られない段階であり、私が何かを語り得るとすれば、最も個人的である所の、「私が何を感じたか」のみでしか無く、それ以外の言葉は全て借り物でしかない。

 

 日常的に何気なく使っている「言葉」自分の行動・思考・意図を表すため自在に使いこなしているつもりでありながら、かえってこの「言葉」によって振り回されている。曰く「私が何を感じたか」という事自体も「言葉」無しでは、あるいは芸術無しでは、表現し共有することが出来ない。つまるところ私の心は「言葉」にとらわれていると言えるのかもしれない。私の想い出なるものがあるとするなら、それは一つ一つの記憶を丁寧に扱いながらも乱暴にラベリングしていく行為であり、そんな事に何の意味があるのか時々わからなくなる。「言葉」に縛られているという実感を拭い去る事が出来ない。

「言葉」に対しての感触があるとするのなら、「言葉」による名付けは世界を分節化する。分節化とは、曰く変えがたき生身の存在一般としか言えないこの”何もの”かに亀裂を入れて、”あれ”と”これ”との区別をつけること。我々が通常使う「言葉」=ロゴスが世界を分節化するだけなく、もっと深層にあって普段は知覚されないもう一つの言葉=ロゴスたる”パトス”なるものがあり、それもまた表層のロゴスとぶつかり、諸々のロゴスがせめぎあいながら、分節化の網の目が間断なく世界に張り巡らされていく。

言ってしまえば「ロゴス」とは<頭>であり、パトスとは<気持ち>である。

はたして、人は<頭>と<気持ち>、<理性>と<感性>、<合理>と<非合理>に引き裂かれた矛盾的存在なのだろうか。あるいはまた、こうした相反するかに見える二つのものは、実は人間の精神と体のように、決して分けることのできない一体のものなのだろうか。

頭じゃわかっているんだが気持ちが私をひょんな方向へ駆り立てていってしまう事自体に悩んでしまうってことですかね。そんな矛盾した行為を平然としてしまうのに、疑問を挟まないわけにはいきません。

 

 長くなりそうなので、この辺で切り上げますが、言葉を使役するヒトであるからこそ、その言葉から逃れ得ることできない。なら真摯にそいつと向き合っていってやろうじゃねえかというヤケになった気持ちがありまして、その一環でこの本と格闘しています。せいぜい二百頁ほどですが、理解するには時間と距離が必要になります。

まだまだ他者が介在するレベルでの言葉をつかう、たとえばコミュニケーションだとか、にその気持は適応されませんがそういった心持ちではあります。