コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

夢のなかの夢

 

夢のなかの夢 (岩波文庫)

夢のなかの夢 (岩波文庫)

 

  一日が終わって、布団をまとって、瞼を閉じて、眠る。その時に見る夢とは何なのでしょうか。他人の夢の解釈者ジークムント・フロイトならなんらかの意味を見出してくれるのでしょうね。

想像を膨らますなら、夢って違う世界の自分が見ている景色を垣間見ること。眠って意識がどこか外に届いたときに、違う世界に生きている自分の生活を覗けるのではないでしょうか。豪華絢爛な建物で優雅に踊っているかもしれない私、高架下で吐瀉物をまき散らして呪詛にも似た言葉を世界に投げかけているしれない私。

自分以外には見れないからこそ、嘘か本当かわからない夢の中身。自分の愛する芸術家たちの夢を知りたいという思いに幾度となく駆られたイタリアの文学者タブッキの「夢のなかの夢」彼が想像した、ほんとうの、嘘の夢。

ーオウディウス、ラブレー、カラヴァッジョ、ランボー、スティーヴンソン、ペソアなど、過去の巨匠が見たかもしれない夢を、現代作家タブッキーが夢想し描く二十の短編。夢と夢が呼び交わし、二重写しの不思議な映像を作り出す。幻想の極北。(本作内容)

 

 私が見る夢、人が見る夢。それは言葉で夢の世界の写実を試みようとも、本当か嘘の判断が出来ないもの。この世で唯一と言ってもいいほどの自分事。そんな、人の夢を思い描くこととは、その人自身を想像する事に他ならない。

タブッキが描いた「夢のなかの夢」は、夢のほかに何一つ物語がない。言い換えるなら、これは物語のなかの夢ではなく、夢の物語です。語り手のさりげない嘘の身振りであり、一分の隙もない仮構の創造でもあります。嘘か本当か確認のしようがないからこそ、肯定も否定もできない。

 

 夢を題材に扱った話はたくさんあります。私が真っ先に思いついたのは荘士の「胡蝶の夢

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。

俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

(「胡蝶の夢」書き下し文より)

 

 自分が見ているものは、虚構なのか事実なのか。夢なのか現実なのか。そんなことはわからねえけど、どっちも同じよね。生きていくってそんなもんだ。という感じのお話です。

夢とはそのまま、物語と言い換えていいのかもしれません。何を示唆するのか意味するのかなんてどうでもよくて、誰にも真否を問えないからこそどこまでも広がっていける物語。勝手気ままに荒唐無稽であろうと、どれほどもっともらしかろうと、夢のリアリティを受け入れることからしか夢の中の夢には加われません。そう思ってこの閉ざされた夢の物語を読むことしか私には出来ません。

 

 怖い夢、ステキな夢、正夢、色々な夢がありますが、それらに何の意味があるのかわかりません。けれどもステキな夢を見た日はなんとなく一日良い気分でいられたり、怖い夢を見てしまうとどことなく気持ちに分厚い雲がかかってるかのようにどんよりとしてしまう。あるいは眠るときに今日はどんな夢を見るかななんて思えること自体幸せなことかもしれませんね。

  

  どうでもいいことですが英語で「おやすみなさい」にあたる文句 "Have a nice dream"ってステキな挨拶だと思います。いい夢見てくださいね。