コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

心のおもむくままに

 

心のおもむくままに<新装版>

心のおもむくままに<新装版>

 

  なにがしかの自分に影響をあたえかねない物事に出くわすとは自分のその時の心境に大きく左右される。たとえば、学生時代に手にとった本が退屈で陳腐に感じられることもあれば、時間が経ってから読んだ時には自分の気持ちを代弁してくれているかのような言葉が発見できたり。たとえば、羨ましくて切なくて心がどうしようもなくなるような恋愛小説に共感が得られるかもしれないし、また逆に耐え難い悪寒を感じ鼻で笑って本を閉じるかもしれない。

何事もタイミングが大事、なんて凡庸な表現かもしれないが、素直に生きていく上で知っておいたほうが何かと、都合がいい。名著とされる書物と向き合った時に、何も得ることが無いというのは、自分の中の問い、タイミングなんてものがまだ準備されていないだけで、その時ではなかっただけでタイミングが合う時に、その時に、また出会えたらいいだけです。あるいは、そんなもの来ないかもしれません。

 

タイミングというか、何気なくという自分の直感を信じることはとても大切なのでしょうか。

今回読んだのはヨーロッパ系の作家スザンナタマーロが書いた「心がおもむくままに」ステキなタイトルですね。

 

ー道に迷ったときは立ちどまって、じっと「心の声」に耳をかたむけてごらん。家を出た孫娘にあてて、老女は置き手紙のつもりで日記を綴り始める。穏やかな語りかけが、生きることへの励ましと安らぎを与えてくれる、心にのこる名作。(本作内容)

 

 人生も残り少ないと悟った老女が、遠く離れた孫娘への置き手紙のつもりで日記を書く。語り続けられる老女の心の暗部の告白。それまで自分自身にさえ明らかにしようとしなかった、理解しあえなかった日々を埋めようとする試みでもあります。

 

ー逝ったものが胸にのしかかるのは、いなくなったためというより、おたがいなにも 言わなかったことがあるためなのだと(「心のおもむくままに」作中p16)

 人を苦しませるのは誰かが逝ったことではなく、それまでに言えなかった言葉が心の奥底にヘドロのようにまとわり堆積していき隙間を埋め続けてしまう。老女はその込み入ったヘドロを一つ一つ、置き手紙にして掬い出そうとします。過ぎ去ったものをもう一度手に入れることは出来ないけれども、過ぎ去ったことは振り返られる。懺悔にも似た告白は、死期を悟った上での告解というよりも、ただ伝えたいだけにも感じられます。

老女はひたむきに、けれど穏やかに孫娘に語ろうとする。語り口は穏やかでも、かつての情念が行間からほとばしるようでもあります。

 

ーそれからお前の前に道がいくつもひらけて、どれを行っていいかわからないときには、気まぐれにどれかをえらばすに、そこにすわって待ってごらん。おまえがこの世に生まれ出てきたときと同じように、たくましく深い息をして、どんなことにも気をそらされずに、ただ待ち続けてごらん。黙ってじっとすわったまま、心の声を聞いてごらん。そして声が聞こえたら、立ち上がって、おまえの心のおもむくままにいくがいい。(「心のおもむくままに」作中p208)

 だいたいにして、自分を苦しめているのは他ならぬ自分自身です。自分の前に道がいくつもひらけて、どれを行ったらいいかわからないときには、自分の心の声を無視して気まぐれに道を選んでしまう。そんな後悔だとか自責の念が、心を蝕んでいく。甲羅をどんどん強固にして中に閉じこもらせてしまう。自分は本当にどうしたいのか?と素直に心に耳を傾けること。それが甲羅を破る唯一の方法。選択することは他ならぬ自分でしか出来ないからこそ。

偉そうに言ってますが、そんな風に進んでいけたらどんなに素晴らしいか。口では簡単に言えますが、恐ろしく難しいことです。自分の中では今の期間は、すわってまって、深い息をして、ようやっとに心の声を聞こうとするタイミングになっているのかなと思います。

 

 冒頭で「読むべきときに読めるものがある」と書きましたけれども、読んだことを消化しきるのに少しばかり時間がかかりそうでもあります。けれども素晴らしいお話でした。個人的には、どういった印象を持つのか、女性の方に読んでみてもらいたいです。