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コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

こころから言葉へ

 

こころから言葉へ

こころから言葉へ

 

 働き初めてようやく四ヶ月。特に問題無く毎日仕事に通っております。以前の生活では考えられないことですが、朝起きて仕事に向かい陽が沈む頃に家に着く。循環としては余り面白くないですが給料を頂いている身としては多くは望みません。そろそろ仕事を任せられはじめて「責任」という二文字がつきまとい始めました。時たま煩わしい気分になってしまいますが、そんなことを言ってられないと考えられるぐらいには、社会的になってきたはずです。

暦が春を告げる三月。季春の時期になりました。もう少し暖かさを感じさせてくれてもいいんじゃないでしょうか。

 

 批評界の巨人と評される吉本隆明さんと元フォーククルセイダーズでもあり精神科医でもある北山修さんとの対談本「こころから言葉へ」。二人の扱うテーマはとても大きく、字面を追って理解しようとするだけで、やり取りに対して自分の問題提起ができないくらいに中身が濃厚な本です。

ー思想家と精神科の医師の十時間にわたる対談、人間存在の本質を為すこころと言葉の起源から始まり、タブーの構造、団塊の世代の評価と未来、総中流化の病理へと進む。身近な問題に鋭く切り込んだスリリングな思索の交換。(本作内容)

  

 言葉の成り立ちから、現代社会に対しての二人の思惑が垣間見えて、一九九三年にやり取りされた内容ながらも、さながら予言のように今の日本での問題を予見していたのかなと頷くばかりでした。こころの在りようには強い感心を抱くばかりです。

 

ー吉本「(中略)ところが第三次産業といいますか、流通業、娯楽業、教育業、医療のような分野で働いている人は、六、七割になっていまして、一時間働いても明瞭な達成感、目に見える成果が感じられないわけです。いくら働いたからどうなったかというのは、すこぶる無形の達成しかないものだから、そういうところからたぶん、精神的な障害がこれからの主たる公害病になるだろうと考えたわけです。(中略)」(「こころから言葉へ」作中p25)

 

 「精神的な障害がこれからの主たる公害病になるだろう」昨今でも社会人としての大きな問題として扱われる鬱病というのは、こういった仕事に対して目に見えた達成感が無いことから自己肯定が難しくなっているのではないでしょうか。知人や身内にも鬱病になった人がいるから精神的な障害というものは考えざるを得ない環境にありました。何が原因なんだろう?と考えると、自分がやった成果に対して自己肯定がし難いことも影響しているのかなと思います。製造業なら一日にこれだけ「自分がつくった」として成果が得やすいですが、そういった見えにくいと「こんなことして一体なにの意味・意義があるのか?」という風に自問自答し、自身の存在と仕事のそれを混同して考えてしまい、精神にまで影響してしまうのでしょうか。その辺りを割り切れる強さがあるのなら問題はありませんが、それほどの強さを持っている人というのは周りをみても、私自身も含めて、多くはないです。

流通や娯楽、医療と言った第三次産業では、欧米の考え方を後追いする形で日本に取り入れられていると感じます。簡単に理解しようとすると、仕事と私生活の割り切り方が関係しているのではないかなと思います。農耕民族である日本人だと、私生活に関する、例えば季節や天候というのは、そのまま収穫物に影響してしまいます。つまり私生活と仕事(農耕)を切り離す事は、どうしても出来ない事です。仕事の割り切りというのは難しくなり、仕事=生活という考えになってしまう所があります。農耕民族でない人々の暮らしと言うものを余り詳しくは知りません。ですが農耕民族であった日本人としての自身を考えると割り切りが下手だなと思える所が多くあります。そういった文化的側面は日本に根付いているものなので、切り離すことが難しい事だと感じます。

 

 精神の問題というのは、文化的側面の他に、言葉や物事の受け方によって大きく関係してきます。軽い言葉や重い言葉が突き刺さってしまう。人にああ言われてこう言われて傷ついてしまう人たちがいます。例えば恥の感覚で圧倒されたり、自分の言ったことをあとで人がどう思うか悩んでしまう人。こういったものは言葉の重さというか「意味の牢獄」に閉じ込められてしまっているのではないでしょうか。「意味の牢獄」の格子の中に囚われないように、あえて言うなら距離、のようなものを測れる割り切りも必要になってくる。言われた事に対して、どう捉えるかを真剣になりすぎてしまうと、自らその牢獄に入り込んでしまい、迷宮のように抜け出せなくなる。「意味の牢獄」から距離を取るとはどういうことかというと、それは言葉の軽さに巡りあうことです。つまり遊べるようになること、冗談が楽しめたり、言葉のやり取りをゲームのように体験出来るようになること、こういったことが言うならば、治癒であるわけです。

 

 言葉とこころの、距離のようなものというのを、私が好きな二人が対談しているというだけでも本当に嬉しい話し合いです。あっさりとやり取りしているのですが、なかなかに重たい内容でした。このように軽い言葉でやり取りできているのは、さすがとしか言いようがありません。おもむろに開いたページを見ただけでも、深い洞察に納得するばかりです。しばらく置いてからまた手に取ろうと思わせる本でした。