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コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

コンテキストに盲目

 昨夜から黙々と降り続け、朝には目を見張るような白さが辺りを覆っていました。私は土曜日出勤のため、雪の中朝から出社しましたが、荒天のために朝礼の時点で各自の必要な業務が終わり次第早期退社をしてもよいとの達しがありました。私の行っている会社はなんと良い会社なのだろうか。と思ってしまいました。今後もし転職するような事があっても、ここよりも居心地の良い会社が見つかるのだろうかと考えると、夢が広がってしまいますね。石の上にも三年。最低でも三年は出来る事をして、出来る事を増やしていきたいものです。それ以降は余りよく考えておりません。

 

 ソチ五輪が巷を賑わせていますが、私が今週一番興味をもったニュースは作曲家の佐村河内氏のゴーストライター騒動です。彼が作ったと思われていた楽曲がゴーストライターによるものだったと発覚してからの一連の騒動をぼけーっと見ていました。平和への思いを込めて作られた「交響曲一番 HIROSHIMA」が平成二十年に評価され佐村河内さんに広島市民賞が送られていたが今回の件が発覚してから取り消しになったと聞いて、いったい何を言っているのだろうかと考え込んでしまいました。

 

 今回の騒動のキモは全聾。耳がまったく聞こえない作曲家を演じ、さらに代わりの作曲家を立てていた、それすらも世間に隠し通してきたことです。それ自体はとんでもないことだとはわかります。けれども広島市民賞取り消しの件は私は何とも思うところがあります。結局のところ、多くの人というのは、作られたモノや行ったコト自体よりも「文脈」を評価して、各々が感動しているのだろうなと思ってしまいました。

 つまり作られた曲自体の評価は置いておいて、全聾の人が平和への想いを込めて作曲した。というよりも「全聾の人が作曲した」という事だけをピックアップして、評価し市民賞を送った。取り消したということは「私は全聾の人が作ったと聞いて感動したのであって、曲自体はそれほど評価の対象になっていない」という風なのかと受け取ってしまいかねないです。

 平和への気持ちが込められたはずの楽曲に感動し市民賞が送られているのなら、評価された曲自体の価値は誰が作っていようと、不変のものであり認められているはずです。なんでしたら全聾だと世間を騙していた佐村河内氏の市民賞を取り消した後に、曲を実際に作った方に改めて広島市民賞を送るなんて機転があったら、なかなかユニークで面白いのですが、大人の事情というものはそんなシンプルにもいかずなかなかに込み入ったものなのでしょう。作曲に際しての指示書を拝見しましたが、あの内容からあんな曲を作り出すというのはなかなかに素晴らしい才能だと思うのですが、どうなのでしょうか。もう一つ気になるのは共作という形になっていたら評価はどうなのっていたのでしょうか。またこの人が世間を騙したことでの被害、あるいはお金の話というのはまったく考慮していませんので悪しからず。

 

 往々にして、クラシック音楽など、理解の及ばないものを評価するときに、それ自体よりもそれに関わる「文脈」で人は判断してしまうもの。私自身も普段触れる機会の少ないものに接触するとき、たとえば今回のソチ五輪に出場されている選手たちの演技や種目を見るときには、意識せずに文脈(どんな事をしてきたか、どんな逆境を乗り越えたか。)で感動をしてしまっている節があります。けれども本当に私達が判断すべきは、今その場に立っていること。そして今何を成し得たか。ということなのではないでしょうか。

 

 というような話を母親にしたら、どこで育て方を間違ったのかと、笑いながら嘆いていました。もし正しい育て方があったのなら、是非ともそう育てられたかったものです。