コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

あなたは誰ですか。

 こんにちわ。二月一日。

あなたはどこから来たの?

 

 昨夜、腐れ縁の友人と朝までパーリナイ!静かに飲む相手がいないとお誘いがあったので家からはるばる友人の家にお邪魔してきました。というわけで泊まりがけで先ほど家に着いて、何か届いているなと郵便ポストを確認したら3つの郵便物がありました。

誰宛かな?と確認したら名前は違えど私宛。まだこの名前でいけるのかと思うと、何となく誰やねんという気分になってしまいました。

家庭の事情と言えば入り組んで聞こえますが大したこと無く、コイントスで裏表を予想するような気分で人生の途中に姓を変更しているので2012年の終わり頃とそれ以前では別の姓名で戸籍登録が為されています。もう一つの名前は、一時期動きまわってる時に半分冗談で使っていた名残があります。話によると祖父が若い頃に流しをしていた時期があり、その時に同じ姓で活動していたらしく、もはや血は争えないのか、意味の無い思いつきで命名してしまいました。

 

 名前って不思議なもので、何らかの呪術めいた力を秘めていんじゃないでしょうか。名前のみならず日本では言葉自体にもこだわりがあり、言霊という考えが意識せずとも根付いているように感じます。受験期になると「落ちる」等という不合格を連想させるような言葉を使ってはいけない。「キットカット」を方言で「きっと勝つ」とあやかって受験時のお守りにするなんてことがあります。このように言葉によって運命が決定づけられるかのように、言霊の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」と言うほどに言葉を信仰しています。

 

 また子どもが出来て命名する際に、名前の音、連想させるもの、イメージを大事にして名付けられます。名前が持つ言霊というのも奥がとても深くて様々な意味合いが込められています。知り合いにそういった名付けに造詣が深い人がおり、軽くお話を聞いたことがあります。例えば名前にカ行は「区切る働き。名前にか行がつくと細やかになる」サ行は「天狗が会話に使う音。意思を強くもつようになる」と言う風に、名前というか言葉の音が強く人に作用する、目に見えないが神霊であるという考え方が古来より伝わっているそうです。名付け自体の話はここでしてもしょうがないので、ア行からワ行のメモがありますし興味がある人は聞いてください。またネットで調べても同じ内容のものがあります。

スタジオ・ジブリの映画「千と千尋の神隠し」でも名前・言霊に関わっている場面があります。主人公の女の子千尋は、湯屋の主湯婆婆に「千尋」の名前を奪われて「千」にされ。いわば自身を象徴する名前を奪われたことで、湯婆婆に支配されてしまう。あるいは現実世界でも受刑者が刑務所で番号で呼ばれるのも、似たような意味合いがあるんかなと感じました。

 

 生物学で命名することは「同じに見えるものを区別する」ために行うそうです。枠組みでは同じですが、決定的な個体差が見受けられるとそれは新生物として命名される。生き物のみならず人形や自分の大事なものに名前をつけて、それの存在を自分にとって他と区別するために行うなんて誰しも経験あるんじゃないでしょうか。

「命名する」とは名づけた対象に命を吹き込む事。名前が無いということは知覚でもって認識され難いと感じます。私は今自分の中にある感情に名前をつけるということがあります。この感情は何なのか?と考えて、怒りなのか嫉妬なのか悲しいのか嬉しいのか、戸惑っているのかあるいはそれらが混ざってるのか・・・と自分を見つめて、感情の基となる感情に名前をつける。すると多少は落ち着いて、これはこういう感情なのかもしれないなと捉えます。

 

 名前はある意味では「それ」に確固たる固有名詞を割り当てることで、「それ」を名前によって縛り付けてしまう呪いめいた面もあるんじゃないでしょうか。キリスト教の悪魔祓いでまず最初にすることは取り憑いている悪魔の名前を聞き出すことから始めると聞いたことがあります。名前を知ることで、悪魔と対等の力関係になれるらしいですよ。

また名前が知られるようになることも、名前に強く作用します。その人が発言することの是非は、何を言ったかよりも、誰が言ったかに強く影響するのではないでしょうか。例えば、名前を知られていない私が偉そうに何かを語った所で、同様の事を言ったとしても、権威のある人の発言になると、途端にメッセージ性が変わってきます。私達は名前自体でその人を判断することもできますが、名前の前につくシンボルめいたものにも強く影響されて判断が変わってしまう事ってありますよね。

 

 元ニートの話なんて基本誰も聞いちゃくれませんが、だからこそ聞いてくれる人を大事にしたいです。