読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

みんな悩んで大きくなった

雑感

 一日、春先を思わせるような暖かさでした。こうやって油断させてまた来週から刺し込むような鋭い寒さが来るんでしょうね。今は静かで柔らかい雨が降ってきます。外出をさせまいとする優しいお節介を感じさせます。

 

 昼間に何気なくニュースを眺めていたら、一つ何か興味深いなと思わせるイマドキの記事がありました。

カッコつけるより自然体を好むLINE世代男子 - http://p.tl/2u2E

 内容に関してはツッコミどころが余すところなく散りばめられているのですが、今回はそれには触れずに、男の子と女の子のアンケート結果に焦点を当てたいと思います。

 

 男子がヘアスタイルを整える目的はなにかという答えに「清潔な人だと思われたい」「まわりからダサいと思われないため」という風に、他者(特に異性)からの視線を意識したものが上位に挙げられています。こういった欲求は、オシャレだとかファッションに疎い私でもそれなりに意識してしまうもの。よく思われたいだとか、ドレスコードを意識するというのは至極当然の話です。

 

 他者からの視線を気にするということは、人間の歴史の中でもずーっと行われてきた事だと思います。「空気を読む」ということも、その場にそぐわない言動を控え和をもって尊しとなすというような考え方です。特に日本人は「他所様が笑う」「お天道様に顔向けできない」なんて比喩的にも他者からの評価、視線を気にするのが強い傾向に有ると思います(自身を鑑みるにも)

 

 実存主義を提唱していてジャン=ポール・サルトルの書いた小説にこういった考え方の問題に近いところを扱った「嘔吐」というものがあります。これは「私」は他者の眼差しに晒されることで「対自存在」(何ものであるか規定されず、自分自身に向い合うもの)から「即自存在」(何ものであるか規定されている存在。)に変えられる。こうして「私」は「対他存在」(他者に対しての私)となり羞恥に囚われる。というような内容です(都合のいい解釈をしています)

そもそも実存主義というのは「本質は実存に先立つ」という思想です。車は車であるから車なのではなく(雑把ですが)「人や荷物を載せることができ動作の際にエネルギーとし、エンジンを駆動させ四輪で動くもの」として車という名称が付けられているいうこと。つまり車の、上にあげたような本質は車が作られるよりも前にあり、その後に車の実存が認められている。

 

 ここで考えられるのは、「自分自身が実存するより前に本質があるのなら、私を私たらしめる本質なんてものが存在するのか。」ということです。具体的なこの話は私には出来ないので、勝手に考えてください。

 主観が感じるところでは、私自身は自分の人生や行動に何か意味があると思っています。しかし感じるところでは、そんなものはありません。そもそも存在そのものには意味がない。実存に意味なんてものがあるのならば私の人生や行動が経過した直後につけられるた、後付に過ぎないんじゃないでしょうか。

 

 話を戻して、実際に存在しているのかどうかわからない「他者からの視線」に囚われて「他者が作り上げたかっこよさ」や「他者が作り上げた清潔感」を意識してしまっている私達がいるということです。リンゴは世界中のおおよその誰が見てもリンゴであると思いますが、カッコよさや清潔感というのは、いったい何をもってそうされているのでしょうか。どうやって判断しているのかわかりませんが、私はV6の岡田君はイケメンだと思いますし、嵐の松潤もイケメンだと思います。福山雅治になら抱かれてもいいかなと思ってしまいます。

 

 LINE疲れやSNS疲れと言った言葉も、こういった「他者からの視線」を意識した余りに出来てしまったものだと思います。ほぼ二四時間体制で誰かからの視線を感じる(感じさせられる)生活にはまともな人なら耐えることなんてできません。便利なツールが出来た反面に生活や仕事においてもあらゆる場所、あらゆる場面での即時的な応答が求められているのではないでしょうか。昔がよかった(そんな時代に生まれてもいませんが)とは言いませんが、本質的なコミュニケーションから手軽で即時的なコミュニケーションに多くのやり取りが移行してしまった余りに、こういった傾向が強くなっているのじゃないかな。

 

 大学時分に、同じ学生を見ると本当に綺麗でオシャレな人だとか、カッコよくてクールなファッションを着こなしているように感じました。私の両親が「最近の子は私達の時代と違って本当にオシャレな子や可愛い子が多い」と言ってましたから、時代性から見ても、より「他者からの視線」を強く意識してしまう時代になってしまっているのでしょうか。しかし意識をするなと言うのも不可能でしょう。好きな人がいたとしたら、その人にどう思われるのか。少しでも良い印象を持ってもらいたいと思う。そのために努力する。改善する。工夫する。恋すれば誰でも同じじゃないでしょうか。 

他者の視線に晒されている他者もまた他者の視線に晒されているので、そのへんはお互いうまいことやっていけたらいいですね。 

 

 確固たる「私」なんて存在しない。社会性を伴って生活しているのならば、「私」自身もまた「他者からの視線」でもって作り上げられたものです。「私」自身の言動を判断・評価するのは他ならぬ、意のままにならない「他者」にしか出来ないから。だからこそ色んな人に会ったり話をするのは相互的にとても刺激的で楽しいです。

 

嘔吐

嘔吐