コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

どれだけ時が過ぎても


Carol Sloane - As Time Goes By - YouTube

 

 成人式の日ですね。今期に成人として式典を迎えられた方々にお祝いをこの場でさせてもらいます。

 式典での、先に成人を迎えられた諸先輩方はきっと、二十歳を契機に社会的な責任が大きくなり、またその責任を全うする覚悟はおありですか?とありがたい言葉を投げかけてくれると思います。真っ向からその責任から逃れた経験がある私には今にして思えば、その言葉はとても煩わしいけれども、重く現実的な言葉だったのだと感じます。けれども二四歳と半年足らず生きていますが、未だにその責任を自覚した試しがほとんど無いというのも深刻な問題です。社会的な責任と自身とのズレを認知し直していくためにも、不器用ながら生きていきたいです。

 

 後輩や知り合いでも、今日はご無沙汰の面々と懐かしい再会をしておられると思います。私自身は高校や大学以降で知り合う人よりも、昔からの、小学校中学校の地元の人たちのほうが深く付き合っているなと思う人達が割合多くいるように感じます。

一方で、そういった青年期に毎日遊んでバカみたいなことで笑っていたけれども今では連絡も取らず疎遠になってしまった人たちも何人かいます。

そこはお互いの何かが問題であったというよりも、共有していなかった時間の中での価値観の変動や、あるいは無自覚の、避けようのないすれ違いみたいなものなんだろうなと最近は思います。

 私の成人式当時では、まさにそういった避けようのないすれ違いを実感する、けれども懐かしく愛おしい人たちと挨拶を交わしました。そこで以前のように純粋に向き合うなんてことが出来なかったのが悔やまれるのも事実です。

だけど「そいつらがいい目にあって生活できていればいいか。今後会うこと、合うことはないかもしれないけれどそれでいいかな。」と思えるぐらいには、成長できたのかな。

 

 また逆に、今でも会えば中学生時代の記憶が蘇り、その時の気持ちのままに付き合えるような友人も何人かいます。違う時間を共有した上で、そういった感覚になれる友人がいるのもずっと大事に出来たらステキだなと思います。

 

 ズッ友だよ!なんてわざわざ確認せずとも、ふわっと今後も一緒に付き合えたらいいかな、なんて親友みたいな人たちが(その気持が一方的であれど)いるなんていうのも、自分の人生そんなに捨てたものじゃないのでしょうか。

 

 基本的に私自身は「〜してもいいんですよ。」という気持ちでいます。そこには例えば「人を嫌いになってもいいんですよ。」とか「そんなに自分を嫌いにならなくてもいいんですよ。」「夢を追いかけてもいいんですよ。」「夢がかなわなくてもいいんですよ。」という、ものすごく自分にとって都合のいい言葉が当てはめられます。(悩みの対しては結構使える考え方だと感じているので、何かの折には使ってみてほしいです。)

だから頭のどっかでは「ずっと友達じゃなくてもいいんですよ。」なんて思ってしまう節があるのも否めないです。逆に言うと、「ずっと友達でもいいんですよ。」とも思えるので、気持ちとしては後者の考え方を大事にしていきたいです。

 

 人間関係の難しい側面はよくわかりませんし興味ありませんが色んな人に振り回されすぎないで、社交的だとかコミュニケーション能力なんてくだらない価値観はどうでもよくて、自分の中にあるものを大事にして、特に体面を気にしないで付き合えるような友人が数えるほどいればいいんじゃねえかなと思います。

 

 流れた時間ではなく、過ごした時間自体を大事にし、五年ぶり十年ぶりでも昨日以来に会うような気持ちで久しぶりなんて言葉を使う必要もない間柄でいられたら素晴らしいですね。