コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

一寸のささくれ

 朝、庭先に霜が降りていて、恐る恐るその上を歩くとキシキシと小気味良い音を立てていました。冬の朝は他の季節と一線を画す景色を見せてくれるので、寒くなるのもちょっとだけ楽しみです。

まだまだ寒くなるよ、と意地悪げな冬の顔が垣間見えるのも悪くないかもしれません。

 

 仕事初めになったものの、新入社員に任せられる仕事は特になく。先輩の話や読書で知識を詰め込む日々です。

電話応対も任せられ始め、先輩から電話応対に関連したビジネスマナーやトーンにおける本をお借りする事になりました。

そうなんだーと思いながら本を読み進めていたら、ビジネスにおけるコミュニケーションに関しての記述がありました。そこには

「電子メールに代表される、コンピューターによるコミュニケーションがビジネスの現場にも浸透してきています。(中略)ところが一方で、この便利さに頼りすぎるがゆえに、人と直接会ってコミュニケーションをとるのが苦手な人が増えてきました。コミュニケーションを、もし漢字で書くとどうなるか?こう問いかけたのは、土光敏夫氏(日本の実業家、東芝元社長)です。その答えは顏対顏。」

 

と書いてあり、無い頭ながらも「おいおい!ちょ!まてよ!」となってしまいました。

コミュニケーションに漢字を当てはめると「顏対顏」になる。確かに本自体はビジネスにおけるコミュニケーションに特化した内容なので、こう書くのが規範的なのかもしれませんが、余りにも乱暴なこの数行で一瞬読む気が失せてしまいました。

 

 部活動レベルで団体行動をして部員とすれ違ったり、就職活動をしてお祈りされたり、恋をして傷ついたり傷つけたり、などなど対人におけるコミュニケーションにおいても数多の失敗を短い人生ながらもたくさんしてきて、「コミュニケーションって何?」と自問自答し続けて、なおかつ納得のいく答えが出せていない私に容赦なく「顏対顏」(本中でのキーワードにもなっています)と言われると若干の抵抗を覚えずにはいられません。

 

 ここであえて、厳密なコミュニケーションの定義を論じたいと言うわけではありませんがビジネスにおけるコミュニケーションに限定したとしても、「顏対顏」と漢字3文字で言い切ってしまうのも難しい話じゃないだろうかと思ってしまいます。

その意味では「対話」に関して補足しているようにしか見受けられません。

 

 コミュニケーションと言っても、言葉で伝えられる情報は良くて半分位だと思っています。もう半分は実際に発言され得ない、そのまま意識の外で泥水のように沈殿を続ける、発話されない言葉に秘められているんじゃないだろうか。

私の持つ言語コードとあなたの持つ言語コードは違って当然である。だから私は私のコードを破り捨てる。次はあなたがあなたのコードを破ってくれないだろうか?と身を乗り出せることが、ひとつの意味での、コミュニケーションでは無いのだろうか?

 

 こんなことにこだわってしまうことが若いとか青いとか面倒くさいと言われてしまう所なんですかね。