コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

詩とは何か

 春のうららに当てられて、ふらっとどこかに宛もなく足を運びたくなる日柄。資本主義的に行かなければならない道筋と、一方で原始的に生きたいと切に願う。現代人の特性の一つには「矛盾性」というのが挙げられると感じてしまいます。

 

 そんなことより、とても興味深い記事がありましたので、それを基に自分の思ったことを書いてみようと思います。こういった考え方って普段は露見しないように抑えているのですが、吐瀉物のように、自分の中にある一定の基準を越えた時にどこかに吐き出さないと満員電車でうっかりと溢れでてしまうと思うのです。しばしお付き合いを頂けたら幸いです。

ekrits.jp

 

  便宜的に今回は「詩」に焦点を当ててみようと思います。ちなみにこれは「芸術」へのアプローチを試みたときにも通じる考え方だと思います。

現代を代表する谷川俊太郎さんとお会いする機会がありまして「詩ってなんですか?」と問いかけたときに、俊太郎さんはいつものようにひょうひょうとした表情で「その人が、それを詩と感じたなら、それは詩になるんですよ。」とおっしゃっていました。

トートロジーのような解答にはなるのですが、なるほどと納得した記憶があります。

 

 私なりに「詩」を解釈するのなら、「意識と意識の外をつなぐインターフェイス」であること。つまり「<私>の意識」と「<私>の意識の外」をつなぐ中継地点です。
ここで<私>の話をするとキリがないので省きますが、意識の外というのは「私達が知覚・思念していないが、有る世界」と言えます。一度も立ち寄ったことの無い原風景にノスタルジーを感じるのはそういった世界と<私>が繋がれたからですかね。
記事中では意味を越えた世界と表現していますが、同様と感じます。
 
 改めまして「詩」とは何かを問うた時に、詩人たちが意味を遥かに越えた世界のインターフェイスを言葉として創りだそうとしたと言うことです。
西脇順三郎詩学』を引用されているように、「詩」を言葉として理解しようとすると、もともと意識の外の世界を表している(あるいは表そうとしている)のですから、どうしても言葉での理解というのは出来ないものです。だってそれは知覚も理解も思ってもいない事柄なのですから。
 論理はよく嘘をつきます。言葉でもってどれほど紡いでも、紡げば紡ぐほどに陳腐なものになってしまいます。ウィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙せよ」と言ったように、感覚を言葉にしようとするのは野暮であり、感覚の本質というのは「沈黙」でもってしか表せないのです。言葉で表せる感覚は、所詮言葉でどうにか出来るものなのです。
 
 言葉の持つ意味は、言葉自体に込められた意味よりも、発信者がどういった背景で、そしてどういった意図で伝達しようと試みたかという側面に強く影響すると考えられます。ここの理解は詩ではなくコミュニケーションに於いて考えるとよくわかるのではないでしょうか。
 また、ここでのコミュニケーションの理解は「<私>の持つ言語コードと<あなた>の持つ言語コードは違って当然である。だから私は<私の言語コード>を破り捨てる。次はあなたが<あなたの言語コード>を破ってくれないだろうか?と身を乗り出せること」ぐらいに理解してもらえればいいと思います。要は対話(を試みる)と言われるものです。
少し補足ですが、あえてビジネスコミュニケーションと言われるものがあるように、ビジネスにおけるコミュニケーションは上記とは意味合いが変わってきます。
 
 
−芸術の、そしてあらゆる思弁の卓越した美質とは、われわれが《含んでいる》とは知らなかった行動や、行動の所産を、われわれから引き出すことである。われわれは自分について、さまざまな状況がわれわれから引き出すものしか知らない……ポール・ヴァレリー詩学」(1935)
 この引用を見て頂ければご理解頂けると思うのですが芸術の、いわゆる「詩」の美質とはまさしく「意識と意識の外をつなぐインターフェイス」なのです。
 
私たちは言語と意識の外部性のなかに閉じ込められているからであり、私たちは〈つねにすでに〉そこにいるからであり、「世界 — 対象」を外から観察できるような視点をもっていないからだ。カンタン・メイヤスー「有限性の後で」
これも同様に意識の外にある世界は観察できないために、言語と意識の外部性のなかに閉じ込められるのです。そして「詩」は<私>とそこを繋ごうとしてくれるインターフェイスなのです。
と、こんな感じで理解できるのかなと思います。
 
 
 話は変わりますが、わたしたちはある言葉によって人生に厚みを増す感覚を覚えたり、一方で決して癒えない心の傷を与えてしまうことがあります。こういったことって往々にして誰しも感じたことあるものでないでしょうか。
 また言葉というのは発信した受信したというよりも、自分の中に生まれてしまったことにより癒え難い爪あとを残してしまうことがあります。
 スザンナ・タマーロの「こころのおもむくままに」という小説でもあるように、ただ言葉が胸にのしかかるのは、おたがいなにも言わなかったことがあるためなのだと。
言ってしまったことよりも、言えなかった言葉たちが沈殿し、重くのしかかり、癒えがたい傷をこころに刻みつけてしまうことのです。 
 
 これまた余談ですが、言葉選びというのはその人の人となりが出るように感じます。
何故なら選んだ言葉は<私>の中から浮いて出てきたものですから。
その人が「言った言葉」よりも、言葉の意味というのはその人が「選んだ言葉」に秘められていると感じます。

厄除け詩集

 

厄除け詩集 (講談社文芸文庫)

厄除け詩集 (講談社文芸文庫)

 

  2015年、人生の節目だと言ってもいい出来事があり、それによって自分でも気づかないぐらい、余裕みたいなものがなくなっていました。好きなことをしていても、イマイチしっくりこない。とてもじゃないけれど、何かを自分の中から引っ張りだすほどの余裕がなかった、と言う日々を過ごしていました。

ともあれ、今となっては落ち着いてきてまた改めて出来れば週一回ぐらい何かか書いてみたいなと感じています。

 

 久しぶりに書いてみようと思ったのが、自分の人生に影響を与えた本という話題で人と話をしたからです。改めて考えてみて、そして実際にその話をしてみたときに、これが自分に影響を与えていたのだと再度認識した次第です。

と言っても、私の場合一冊の本というよりも、一つの詩に出会ってから確かに影響を受けてしまったのかなと感じています。

 

 それは唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」に付した、井伏鱒二の妙訳です。

おそらく多くの方がご存知だと思います

 

「コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトヘモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ」

 

最後の一節に読んだ時に、当時は高校生ほどでして、月並みな表現をするとまさに鳥肌が立ってしまったのを鮮明に覚えています。内容も然ることながら、言葉選びのリズムの小気味よさ、字面だけでも見惚れてしまうような芸術的な美しさがあります。

 

少し私なりに解説をしてみますと、この詩の捉え方は二通りあります。

一つは「別れの時が来たので その別れを惜しむ」惜別の捉え方。

二つ目は「その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということ」と捉えるいわば 一期一会です。

もちろんどう捉えるかはその人それぞれとなりますので、好きなように解釈して頂ければと思いますが、若い私はこの詩を読んでこう感じました。もしかするとその時感じたことは未だに私にこびりついてしまっているのかもしれないなと今回話をしていて、らしくない手応えを覚えてしまいました。

 

いつか別れが来てしまうのなら、私が人と出会うのはなぜだろう。

どうして人と別れてしまうと、心に隙間が出来たような喪失感があるのだろう。

こんなに哀しいのなら、苦しいのならと、北斗の拳サウザーみたいなことを感じました。

 

出来るならば私は出会った人にさようならを言いたくありません。

しかし卒業や移動、またどうしようもない理由で二度と会わない人も今までにたくさんいます。そして人との出会いの数だけ、その人達にさようならを言わなければいけなくなってしまうと考えてしまいます。

 

寺山修司という歌人、劇作家が井伏のこの訳詞の後にこう続けています。

 

「さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう

はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう

さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう

やさしいやさしい夕焼けと ふたりの愛は何だろう

さよならだけが人生ならば 建てた我が家は何だろう

さみしいさみしい平原に ともす明かりは何だろう

さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません」

 

こう言ってはなんですが、私は寺山修司と近いものを感じてしまったのではないでしょうか。

 

 最後に余談ですが「さようなら」の語源の一つに「左様ならば(致し方ない)」と言われています。どこか無常観を感じさせますね。

ちなみに英語の『good-bye』の意味を調べてみると『God be with you. 』という祈願文が縮約されたもので、『神がなんじとともにあれ』という意味になるのだそうです。日本語とは違い、祝福をする言葉となっています。こちらも余談です。

 

さようならは極力言いたくないものですね。

斜陽

 

斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

 

  毎度ながら久しぶりの投稿です。四月に前の仕事を退職し、六月からこの歳になって新天地に新生活と目まぐるしい日々を送っていました。鞄の中にはなんらかの本が入ってなにかしら活字に目を通してはいたのですが、頭の中が整理できずに何も書こうというか、書けるような手応えのないままに長らく時間を空けてしまいました。

過去の投稿を見ていても直近では言い訳じみた書いていない理由を記していましたが、なんてことはなく、何かを思うほどに頭を使っていなかっただけなのだなと感じます。

では今は書けるのかというと、実感はなく、とりあえず書いてみようと本を向き合っている次第です。

そんな心持ちで太宰治の本を手に取るというのは自分を追い込みたいマゾヒズムめいた自虐があるのかなと読後に思いました。

 

ー母、かず子、直治、上原の四人を中心として、直治の「夕顔日記」、かず子の手紙、直治の遺書が巧みに組み込まれるという構成の作品で、没落していく弱きものの美しさが見事な筆致で描かれている。発表当時から現在に至るまで賛辞の声がやまない、「人間失格」と並ぶ太宰文学の最高峰である。(本作内容)

 

 かず子の語りで綴られている、没落していく弱き者の美しさが描かれた作品。

実のところ高校生の頃に読んだ事があるのですが、余りピンとくることもなく読み通しただけだったのですが、今になって読むと、文章を通して作中に漂う灰色めいた景色が目に浮かび、良くも悪くも、本を読めるようになったのかなと思いました。

お酒を楽しむとか、ある程度歳を取ってから手に取ってみると深く入り込めるようになっていることがあり、歳を重ねてからのほうが価値があるかもなと思わせる内容です。

 終始文章に漂う灰色の不吉さが、否応なく私のような人間を引き込んでしまい目が離せない言葉運びにはっとさせられ、人生って何なのかなと改めて考える材料を与えてくれます。

 

ー革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ(作中引用)

 

 語り口であるかず子に感じるのは、理性的な人間というよりも感性で生きているように見えます。その感性が、ある場面では論理や理性と言った社会的な道徳や規範よりも、言葉にしえない説得力、力強さを秘めておりブレのないかず子には賞賛を覚えてしまいます。人間はなんのために生まれてきたのだ。恋と革命のために。どう捉えるかは難しいです。恋と革命、あえてこの場面で言うならばなんらかの形で、子孫や偉業と言った、生きた証を刻みつけたいと望むことなのかもしれません。

 

いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。(作中引用)

 

 物語の最後に一節出てくる文章ですが、これを読んだ時に「なるほどな」と納得してしまいました。滅びの美しさを描いた作品だなと私はここを読んで感じました。

斜陽とは、夕日や西に傾いた太陽と言った意味の他に、かつて勢いのあったものが時勢の変化についてゆけず傾いていく様を表しています。この場合の題名の意味は後者の「時勢の変化についてゆけず傾いていく様」であり、夕日といった暖色よりも、先ほどいったような退廃的な灰色の色合いが強く出ている作品です。

 

 劇的な結末や、想像を越えるような顛末がある作品でないですが、統一性があり一ページ一ページに対して登場人物の姿勢がはっきり見えます。読みやすいかと言われると、太宰治の作品に共通することですが、人を選んでしまう小説です。

 *(

マディソン郡の橋

 

マディソン郡の橋 (文春文庫)

マディソン郡の橋 (文春文庫)

 

 

 本を読む機会がめっきり減って、以前のペースと比べると半分以下でしたが少し余裕を持って前向きに読書をしていきたいです。更新していなかった間にも何冊か書いて思うものが多々ありますので一つずつ拾い集めて行きたいと思います。

久しぶりにしては少しばかりディープな題材を扱ったものになりますが、さすがに不朽の名作、映画にもなっているのでご存知の方も多いと思います。古典的とも言える、一つの美しいと呼ぶしか無い、愛を描いた「マディソン郡の橋」です。

 

ー屋根付きの橋を撮るため、アイオワ州の片田舎を訪れた写真家ロバート・キンケイドは、農家の主婦フランチェスカと出会う。漂泊の男と定住する女との4日間だけの恋。時間にしばられ、逆に時間を超えて成就した奇蹟的な愛―じわじわと感動の輪を広げ、シンプルで純粋、涙なくしては読めないと絶賛された不朽のベストセラー。(本作内容)

 

 簡単に言ってしまえば男女の不倫を描いた小説。しかしそんな簡単に切り捨ててしまっていいのでしょうか。こと日本においては倫理的にそれを乱す行為は罪となります。もちろん愛すべき伴侶が存在し、そこを不義理にしてしまうというのは間違い無く罪とはわかっております。ですが、そういう言い切ってしまっていいのでしょうか。この本は読者の経験により判断がまったく別れてしまう内容だと感じました。見方によっては、とんでもないことです。しかし、ロバート・キンケイドとフランチェスカ・ジョンソンの間には本当の、愛を感じていた。だからこそ物語最後のフランチェスカの子どもたちへの手紙に彼女は「この愛があったからこそ、自分は家族のもとに留まる決心ができたのだ」と書いてあります。もしこの愛が無かったなら、私は家族を捨ててどこかへ行ってしまっていたかもしれず、この地と夫と子ども達を愛することもなかっただろうとも書いてあります。

 

 日に日に神経を先細らせていく世界で、自分の感受性の殻に閉じこもりがちになってしまっている。なにが情熱でなにがつまらない感傷なのか、私にはわかりません。

「文化や芸術といったものが不倫から生まれることがある」と発言した人が過去にいますが不倫だなんて、簡単に言うつもりはありませんが、文化的なものがそういったものから生まれ得ることもあるでしょう。日本文学にもそういったものを題材とするものが多くあり、禁忌として見られるからこそ芸術な美しさを備えることもあるのかもしれません。

 

運命と言う大きな枠組で捉えるならば、今一緒にいること、一生一緒にいること、そして離れてしまうのも全て運命なのでしょうか。生きる時間とは一つの人生ではなく、「もし......」と言える数だけ存在しているのでしょうか。そしてマディソン郡の橋ではフランチェスカは二つの人生を同時に生きたのかもしれません。

 

愛すべき人がいるにも関わらずといった火遊びを揶揄しているのではなく、いつ、どういったタイミングで本当の愛と言えるものに出くわすかはわからない。結局の所、その人が運命と言えるのか、生涯の伴侶と言えるのか誰にもわかりません。例えば今愛すべきパートナーがいたとして心から運命と思えるならばそれ以上に幸せなことはあるでしょうか。わからないからこそ、とも言えるのですが。

投資家が「お金」よりも大切にしていること

 

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

 

  ふと目をやると、少し前までは緑々と茂っていた葉先から秋の訪れが感じられる季節になりました。まだまだ日中は暑いと感じるほどですが、日が沈みかける頃には肌寒くなってきています。窓の向こうから聞こえる虫達の合唱は、囁きにうつり心地よさをも感じさせる時期ですね。

 

 最近まとまったお金を使う機会が多くあり、そろそろ冷静にお金を貯めていかないといけないなと思う事が増えました。でもこんなに自分を振り回すお金っていったい何なのか?と同時に疑問を抱きます。社会的だとか文化的な生活を営む上では欠かすことのできないもの。生きていく上ではきちんと向き合っていかないといけないものだとはわかっているのですが、その実何も理解していないじゃないかと自分の不甲斐なさにも気づいてしまいます。

その時に思い出したのが糸井重里さんがやっておられるほぼ日刊イトイ新聞での対談で、ひふみ投信という投資信託を経営されている藤野英人さんとのやり取りを思い出しました。この人が去年に出された本「投資家がお金よりも大切にしていること」。手にとった時、書き出しに興味を惹かれてしまい一息で読んでしまいました。

 

 ー人生でいちばん大切なカネの話をしよう(本作内容)

 

 お金って一体何なのか?言うまでもなく、皆が必要として欲しているものです。ですが日本においてはお金の具体的な話をするのは割合禁句として見られています。年収の具体的な内容を聞くのは女性に体重を聞くのと同じくらいの無礼ではないでしょうか。

わかっていることは、お金とは貨幣とは、商品に与えられた数字いわば価格に対しての等価交換を行うためのある種の象徴みたいなものでしょうか。以前読んだ「ヴェニスの商人資本論」でも同じような問いかけをもって考えてみたのですが、具体的なところまで踏み入ることができていないなと実感します。なんとなくわかるのだけれど理解ができていない。日々使っている割にはお金に対して実感が無いものです。

 日本においては、お金持ち=悪という考え方が強く根付いています。お金を稼ぐには悪いこともしなければならない、日々のニュースに時たま目をやるだけでもお金を悪い方法で稼いでいる人達が捕まっています。そういった面ばかり見ていては、無知な私でも悪い事をしなければ稼げないのかと思ってしまいます。また地に足をつけて稼いだお金じゃないといけないという考えもあります。不労所得、自身の持つ資産を活用してお金を稼いでいる人には多くの人が良い感情を抱かないのではないでしょうか。コツコツと地道に稼いでこそ日本人としての美徳があると私の勤務している会社でも近いことを言っている人たちが多くいます。その考えは間違っていないけれど、なんだかひっかかるなと感じます。

プロレタリアートとブルジョワジーの違いとは、プロレタリアートは自身の時間や体力、知力を消費して稼ぐ人であり、年収が何千万と言う人でもその人はプロレタリアート、無産階級です。一方ブルジョワジーとは、お金がお金を生む仕組みを持っている人です。ざっくりと年収200万の人でも、お金がお金を生む仕組みを持っている人はブルジョワジー、資本家階級です。若干話が逸れてしまいました。

 

 お金が絡む事象は経済として考えられます。じゃあ経済って一体何なのか?

ー経済というものは、その語源からして「みんなの幸せ」を考えるものなんですね。

Economy(経済)の語源は、ギリシャ語のオイコノミアです。中略(作中p97)

 

ギリシャ語のオイコノミアとは「共同体のあり方」という意味で、経済学の本質とは「どのように生きたらみんなが幸せになれるかを考える」ということです。ちなみにエコノミーを「経済」と訳したのは諸説はいくつかありますが、明治時代に福沢諭吉が訳したという説が有力です。経済という日本語は「経世済民」という言葉からきており、これは中国の東晋時代に同郷研究科の葛洪が訳した「世を納め、民を済う」という意味です。

つまり私達が、個人としてだけではなく、どのようにすれば幸せになれるのか「お金を通してみんなの幸せを考える事」が経済なのではないでしょうか。

 

 藤野英人さんが投資先を選ぶ際には「成長する会社」を中心に投資しています。大手だだろうが中小だろうが、社会のために役に立っているかどうか「みんなの幸せを考えている」真面目な会社かどうかというのが判断材料になっています。この考え方は単純明快ですね。具体的な内容までは是非本を手にとって見ていただきたいのです。

投資=マネーゲーム、博打ではなくて、みんなの幸せを考えている真面目な会社を応援するための手助けではないでしょうか。

お金にこだわるのは卑しいことではなくて、結局必要なものなのだからみんなの幸せを考えるためのものとして向き合えば、もっと誠実にお金のことを考えられるのではないでしょうか。読み口も優しくわかりやすいので、お金を儲けたいとかお金って何だろう?と少しでも思っている人、まだ就職していない学生の方にも読んでみてほしいです。