コーヒーのしずくと紙のしみ

好きなこと書いていけたらいいなって思います。

自由の牢獄

 

自由の牢獄

自由の牢獄

 

  夏の気配が薄くなる日柄。どことなく周囲には秋めいた香りがしています。

何気なく夏を過ごしてしまい、今年はどうだったのかなと思い出せることが余りありません。去年でしたら特に心労を抱くこともなく、存分に目の前の楽しみを過ごすことができました。ですが四半世紀目の人生を迎えながらも季節感を大事にできないほどに一杯一杯で生きているようです。

ここ何回か書き続けていますが、日々の生活の中で若干余裕を欠いてしまっておりゆっくりと自分と向き合うことはおろか読書に耽り心だけでもどこかへ行こうとする気力も落ち気味になっていました。それではいけないと思い活を入れようと目に止まったものから調整がてらに余裕を見出そうとしています。

 

 今の仕事は勢いで決めた所があり、本当に自分がやりたいことなんだろうかと今更ながら就活生のような疑問を抱いております。能力の是非は置いておいて、自分がなりたいと思うのならある程度は職業の選択が有る時期がありましたが、それすらも迷いに迷って決めかねてしまい、今更ながらツケがまわってきているのかなとも思います。

自由であったが自由になれなかった。選択肢がありすぎて路頭に迷ってしまった。とにかく目の前にあった扉をこじあけるように選んだ人生なので文句を言っても仕方がありません。自由すぎるが故に、何も決められなかった。

今回読んだのは「モモ」や「はてしない物語」で多くの方がご存知のミヒャエル・エンデ。彼の短篇集「自由の牢獄」です。短い物語がいくつかあるのですが、終わりのないお話は、どこまでも考える材料を提案してくれます。

 

ー精神の世界の深みにおもりを下ろし、そこに広がるさまざまな現実を色とりどりの花束に編み上げた、エンデ文学の到達点を示す力作。(本作内容)

 

 八話の短篇集からなっており、そのどれもが読み手の精神の深くにまで訴えかけるどこまでもディープなお話です。一つ一つを手にとってどこまでの深みにたどり着いているのか確認したいのですが、今の私には難しいことです。今回は表題の「自由の牢獄」に向き合ってみたいと思います。

 若くみずみずしい力に満ちた、うぬぼれた思い上がりに囚われた商人はアッラーの教えをも無碍にし、自由気ままに振る舞っていた。そこに天国から舞い降りたような美しい踊り子に誘惑されるが、それはイブリース(悪魔)であり、その罠にかかり百十一の扉しかない、全知全能さえも目の届かない空間に閉じ込められる。そこには<声>が語りかけてき、商人の中に疑いと、決心を鈍らせる迷いを投げかけてきます。

百十一の扉の先には、恐ろしい厄災が待ち受けているか、この世の快楽の限りが満ちた運命が待っているかわからない。しかし一つの扉を開けてしまうと、他の運命は固く閉ざされてしまい、選択したことを受け入れることしかできない。しかし商人は自分の疑いと<声>に惑乱され選ぶことができずに老人になるまでその空間で過ごし続ける。

 

これが自由の牢獄です。あらゆる選択肢を、自由であるが故に選ぶことができない。神の慈悲を乞うこともできずにただ呆然と空間の声と自分の猜疑心に悩まされ続ける。

 

 自由とは多くの選択肢から一つを選ぶことだという風に思いがちですが、そこには意志や希望、あるいは欲望があり確固たる私が介入し得ない、完全に自律的な自由は存在しない。希望は可能性であり、可能性はまだ存在しないもの。私達は一瞬一瞬の一つの形を一つの状態でしか選ぶことができません

本当の自由とはいったい何なのでしょうか。私達が選択をする時にはどういった意志がそこに介在しているのでしょうか。少し違うアプローチをしてみると、「自由でない」とはどういうことでしょうか。一つには、「選べない」つまり「迷う」ことだと思います。自分が選択するということはそれによって全責任を自身が負うことになります。だから躊躇してしまう。選べない。これが自由の反対に位置する一つの見解だと思います。なので本当に自由であることは、「迷わないこと」ではないでしょうか。このお話では商人は百十一もの選択肢があり、自由に囚われた余りに選ぶことができない。

 

 私達が欲しいものを自由に買う。例えば私が時計が欲しいから世の中に数ある時計の中から、自由に、一つだけ選べるとします。もちろん気に入ったデザイン、ブランド、機能性など選択するための材料はたくさんあります。そこで選んだものは、本当に私自身が望むように、自由に、選んだものなのでしょうか。ここで私が懸念するのはそれに対して他者からの判断を仰ぐのではないでしょうか。他者が承認してくれたものでない限りに、心からそれを認めることができない。ここでは<声>、つまり他者からの承認が得られないことに自由を象徴する数ある扉を前にしても気が遠くなる時間迷い続けてしまうのです。

 

 ここ数年でも「自由」は多くの人にとって人生のキーワードになっていると感じます。自由に生きるとは。本当の自由とは。結局の所私達は社会的な人間であり他者の存在でもって自身の存在を確かめることができる。それは自由という感覚にも関わる大事な要素です。完全に確固たる私が選ぶことが出来る自律的な積極的自由と社会あるいは他者からの視線に影響する受動的な消極的自由の二つがあると感じます。そして積極的自由というものは本当に少なく、もしかすると私はそういった形の自由を目にしたこと、触れたことはないのかもしれません。

 

 この自由に関する話でも、本編では一つの側面でしかありません。この短篇集の一つ一つが俗にいう「考えさせられる」ものであり、完全に理解していくとなるとまだまだ私には理解がおよびません。ミヒャエル・エンデの多くの著作は一応児童文学に位置していますが、大人の方でも、昔読んだ方は大人になったからこそ、また違った「考えさせられる」材料を提案してくれるでしょう。

 

 この本を読みながらもし私がこの空間に飛ばされ百十一の扉を目の前にしたらどうするだろうかと想像してみたら、きっと私は早々にいづれかの扉を開けて自分が選択した運命を受け入れるだろうなと思いました。扉を選ぶのも運命であり、選ばないのも運命でしょう。また運命に抗うのすらも運命かもしれません。もし貴方が百十一の扉から選べと言われたらどうするでしょうか。

お金を稼ぐって大変

 なんだかんだで一ヶ月以上もの間放置してしまいました。当初は自分への課題として二日に一回何かを書く、そしてそれはある程度までは律儀に守られていたのですが今となっては三ヶ月ほどしか続かないおぼこい恋愛のようなものでした。

ただ頭の片隅では、何であれ書いた方がいいよなと思いながらも、書けるほどに本を読んでもいないし思考の揺さぶりを感じるようなことも無く書いていないというよりも書いていられないという状態でした。

 

 就職してから早いもので八月いっぱいで九ヶ月になります。最初の頃は温いものだと感じていましたが、度重なる退職者に見まわれ新人と言えるような境遇の私にでもその場しのぎのための仕事を割り振られている状況で、七月頭の頃はどうかしてるとしか思えないほどの残業時間を重ねてしまいました。

業種が違えばそのような残業時間もざらなのかもしれませんが、私のように働くことに対しての意識が甘い、実際に就労していない期間が普通の人より長いとどうしても精神への負担が大きくなってしまい、二十四年ほどストレスというものを感じたことがなかったのですが、自分の中で「これはストレスだ」と実感してしまうほどに追い込まれています。

昔ながらのこれぞ中小企業というような会社なので、仕組み作りによって成り立っているというよりも、ある面では社員への負担を目をつぶりながら根性でやっているような会社です。ですので、多くの人が会社での仕事に対して「こんなもん」というような認識をどこかで持っているように感じてしまいます。

この「こんなもん」という認識が何よりも怖くて、どれだけ考えようとしてもそこで思考停止にかかってしまっているなあと実感します。人より秀でた能力が無い私は実際にそうなってしまい、自分の脳みその蜘蛛の巣が張っているような感覚が続いている日々です。ここで才のあるような方なら工夫を盛り込んで働けるのでしょうが、今の時点ではそこまで頭がまわらない日々追われています。

 

 働かせていただいている会社は製造業で、何か問題が発生するとなぜ?なぜ?分析を用いて本当の問題を追求し、原因追求・対策を行うという手法を取り入れています。こちらは元々トヨタの方が用いた思考体系であり、トヨタ生産方式として普及し色々な業種や分野で用いられているそうです。

細かいものを扱っている会社なので、良品があがるけれども規格から外れてしまった不適合品を作ってしまうことがあり、誤ってそれが客先で発見された場合は是正対策としてなぜ?なぜ?と問題を追求していく場面をこの何ヶ月で何度も見てきました。

 

 なぜ?なぜ?と掘り返していけば確かに最もらしい問題に対する原因が出てくるとは思うのですが結局の所追求しても問題の多くはヒューマンエラーであって、そこに無理やり意味をあてているように思います。先だって設定間違えで不良品を出してしまった現場の方が、是正処置としてなぜ?なぜ?と問題追求をしていました。

するとどれだけ視点を変えても出てくる答えが「確認しなかった」とか「手順書になかった」という所に行き着いています。

なぜ確認しなかったのかと言うと納期対応に追われて確認する余裕がなかったためとなり、なぜ納期対応に追われているのかと言うと無茶な生産計画で対応しているから、そしてなぜ無茶な生産計画になるというと人出が足りないから・・・という風に問題が明らかになってくるのですが、そのへんの問題点までは黙殺されています。

結局のところ、分析を続けているとヒューマンエラーに行き着いてしまい、確認が行き届いていないという風になっています。私が調べたり見た多くの是正対策の答えはそういった解決先を取るようになっていて、ルールばかりが増えている・・・と言う印象を受けています。

 

 この手法自体は素晴らしいとは思うのですが、そもそものもの作りの仕組み作りが出来ていない状態で分析を続けていたとしても同じような答えしか出ないのではないか?という疑念を抱いています。

しかし人間ですからミスを犯す存在であり、ものづくりを個人レベルではなく仕組みとして担保するという前提が無い組織では、もっともらしい分析をしても、余り効果がないのではないかと思います。

 

 そもそもの前提となる仕組みが無い立ち位置で思考の展開を広げようとしても、行き着く先がよくわからないところになってしまうという自戒です。

今夜、すべてのバーで

 

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

 

  一週間の鬱憤を晴らすかのように誰かとお店で、水で割られたウイスキーのように本来のそれからは遠ざかっているけれど何か意味があるかのようなことを語りながらお酒を飲む。あるいは夕飯を食べてからの週末への準備。家で一人でどこぞの小説の登場人物みたいにジャズを聴きながらとっておきのお酒を愛おしげにちびちびと嗜む。

どんな場に出てもひとまず問題が無い程度に嗜める程度でお酒が大好きとまではいきませんが、二五歳にもなるとそれなりに飲む場面が多くなってきています。

 

 アルコール中毒になるほど飲むなんてなかなかに理解し難いものですが、それはたまたま依存した先がお酒であっただけで、何かの拍子に私もそうなるのかもしれないなと思うことがあります。

アル中の入院記を描いた中島らもの「今夜、すべてのバーで」。ここに書いてあったことはわかるような、まだ遠いような、そのうちやってしまっているのかもと思わせられました。

 

ー禁断症状と人間を描いた中島らもの傑作小説アル中患者として入院した小島容。途切れ途切れに見える幻覚、妙に覚めた日常、個性的な人々が混然一体となって彼の前を往き来する。面白くてほろ苦い傑作長編。(本作内容)

 

 ロックンロール作家中島らもの傑作。おそらく本人の入院経験と基に書かれているのでしょう。余りにもリアルであるからきっとそうなのかもしれない。

自身の体調の異変が深刻な症状で現れて、初っ端から医者に入院を強制させられる。自覚があったのかないのか、本人は重度のアル中で一日でウイスキーの瓶を空にする生活を一七年ほど続けてきた。よっぽどでない限り衰弱のサインを示さない「沈黙の臓器」と呼ばれる肝臓が悲鳴をあげるほどにお酒を飲み続ける。そこまでお酒を飲ませてしまうのは何からなのでしょうか。

 

 お酒飲みで、本当にどうしようもない主人公。その半生も中島らも本人と照らし合わせられる事が多く、きっと自身をモデルに描いているのでしょう。物語のほとんどは四〇日にも及ぶ入院生活の中での、憎めない酒飲み、かしましい三人組のおばちゃん達、人間臭い主治医などなど。深刻なアル中の症状を描いているのだけれど爽快感に溢れた中島らもらしい小説でした。

 

 アルコール中毒への警告というよりも、お酒への愛が感じられる内容でした。これほどまでに体を追い込んでしまって、命に関わるような状態になっても飲んでしまう。わかっちゃいるけれどやってしまう。人間のどうしようもないダメさが描かれています。俺の体だ好きにさせろと言われてしまうと何も言えないのですが、そういうものでもないでしょうに。死のうとする人間を止める手立てはないけれども、死のうとしていない人間を止めることはできる。

お酒だけでなく、依存してしまうというのはなかなかに恐ろしいものです。私自身も大層強い人間では全くないので、何かに依存してしまう可能性があります。もしかすると今は音楽を聴くことが癒やしだなんていいながらそこに何らかの寄りかかれるものを見つけてしまっているのかもしれません。あくまでも個人的なものなので誰かに危害が被るなんてことがありませんので何もありませんが、ひょっとするとそういう風に依存してしまっている人ってのは多くいるのではないでしょうか。

私なりの解釈ですが、中毒というのは「何かに自制のコントロールを引き渡した状態」。私の場合音楽を聴くことで感情をコントロールしようとする。つまり音楽に感情の自制のコントロールを引き渡してしまっているのです。お酒やドラッグというのはその最たるものでしょうね。他にも人への依存なんてものもそうなります。この人と一緒にいると落ち着く、なんていうのも一種の依存心かもしれません。

 

ー薬物中毒はもちろんのこと、ワーカホリックまで含めて、人間の”依存”ってことの本質がわからないと、アル中はわからない。わかるのは付随的なことばかりでしょう。”依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。何かに依存していない人間がいるとしたら、それは死者だけですよ。いや、幽霊が出るとこを見たら、死者だって何かに依存しているのかもしれない。アルコールに依存している人間なんてかわいいもんだ。中略 (「今夜、すべてのバーで」作中p232)

 

 依存していない人間がいるとしたら……と考えると、どういう人間がそうなのでしょうか。想像ができません。誰しも何かに依存している。それが社会的だとか、対人関係において迷惑を及ぼすようなものであるか、そうでないかの違いであって、表層的になっていないから問題が無く本人も自覚していないのかもしれません。ただ私が思うのは「自分はまともだ」と思っている人間ほどヤバいのかもしれないなと思います。「自分はまともだ」と言うことに依存していて、気付かずに杓子定規的になっているかもしれない。「俺はちょっとおかしい」と冗談交じりにでも言える人のほうが客観的に視ようとしていて、信用できるんじゃないかなあと、今は、思います。

 

 アル中を題材に扱っており、参考文献も潤沢にあるので一つにアル中を懸念している人がやめるのにも使える、けれども説教臭くない人間味溢れる小説です。酒を控えようと思うか、あるいは酒への愛情を確認できるかもしれない。後半でどどっと展開する中島らもらしい作品です。お酒に興味がなくても、一つに読み物として読んでみてもいいと思います。

 

女ぎらい ニッポンのミソジニー

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 男だから、女だからなんて言い方は余り好ましいものではありませんが、無意識のうちにそういった物の考え方はしてしまっている。こんなことは誰しも経験があると思います。私は男だから、どうしても男的な考え方でしか女性のことを想像できません。一方で、おそらく女性も女性的な考え方でしか男性のことは想像できないのでしょうか。どちらかと言うと、男からのそれは大体的外れであり、一種の願望めいたものを帯びていて女性目線のそれは割合当たっているのではないでしょうか。

 

 そういった男性的だとか女性的だとか、性別の話に強烈な一石を投じた上野千鶴子女子「女ぎらい」。フェミニストとまではいきませんが、私は男性よりも女性のほうが生き物として強いんじゃないんだろうかと思います。そういう意味では女性支持者であり、まわりに母親やそれ以外の方に、逞しいなあと思わせる女性が多いためにそう思うことが多分にあります。あくまでも自称としての立ち位置で中立的に性差を認識しているつもりだったのですが、そんなことありませんでした。男の中に潜む、自分でも意識していないか、あるいは無意識に避けようとしている自分のなかの仄暗い欲望めいた願望を白日のもとに引き出して見せてくれます。結構強烈な内容でした。

 

ー ミソジニー。男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。――「皇室」から「婚活」「負け犬」「DV」「モテ」「少年愛」「自傷」「援交」「東電OL」「秋葉原事件」まで…。上野千鶴子が、男社会の宿痾を衝く。(本作内容)

 

 ミソジニーとは訳すとなると女性嫌悪。けれども女史は作中でミソジニーの男は女好きが多いと述べています。これは女を性欲の道具としか見なさない男性を指しており言うならばミソジニーとは女性蔑視と言える。性別二元制に深く埋め込まれた自覚し得ない核がミソジニーであり、この強烈なシステムのもとで男になり女になる者のなかで、ミソジニーから逃れられる者はいない。こと日本においては余りにも自明であるために意識することすらできないからです。

 

 ーエドワード・サイードは「オリエンタリズム」を、「オリエントを支配し再構築し威圧するための西洋の様式」、言い換えれば「東洋とは何かについての西洋の知」と定義した。だからオリエントについて書かれた西洋人の書物をこれでもか、といくら読んでも、わかるのは西洋人の頭のなかにあるオリエント妄想だけであって、実際のオリエントについてはわからない。(「女ぎらい」作中p15)

 

 オリエントを「東洋とは何かについての西洋の知」と位置づける考え方は、色々なことに応用できるなと思いました。昨今巷に溢れかえる恋愛論や性差の話、はたまたポルノ産業に関わるものの見地は「女性とは何かについての男性の知」であったり「男性とは何かについての女性の知」であるものが多いのではないでしょうか。こういう風に物事の見方の姿勢を定義付けることで、捉え方が明確になるとか変わってくるものは多くあるのではないでしょうか。

文学、のみならずポルノにおいて、サイードがオリエンタリズムについてそうしたように、男の作品を「女についてのテキスト」ではなく「男の性幻想についてのテキスト」として読めば、学べることはたくさんある。男が女を語っているふりをして、ある種の男の中にある謎をあきれるほど率直に語っている。

 純粋にムカつくとか嫌だなと思う発言や表現に直面した際に、それがどういった立場から発信されたものかと位置づけることで、向き合い方やあるいは対処法を判断できるようになる。女史がサイードを引用したのは、明確にするために、という点では素晴らしいなあと感じました。

 

 この本はミソジニーを土台にいくつかのトピックに別れており、それぞれについて感想を付き添わせていたら、膨大な量になってしまいます。男の人が読んでも女の人が読んでも「そういう考え方があったのか」とか「それが言いたかった」というような内容が本当にたくさんあります。フェミニストの中には女史の猛烈な支持者がいることも頷ける内容でした。

 作中p261にホモソーシャルホモフォビアミソジニーの三点セットの図があり、このモデルを理解することができたら本の6割以上は理解したと言ってもいいのではないでしょうか。

男にとっての女、男にとっての男、女にとっての女、女にとっての女の少なくとも4通りのパターンがあり、それぞれの理解、立場を明らかにする材料としては今までの私の中にはこれ以上は無いなと思えるくらいに頷けるものでした。

 
 女性も男性も、ぜひ手に取り読んでみてもらいたい。それほどまでに強烈な内容です。 
誰にとっても他人事ではない性別の話。どんな立場、姿勢であろうと今までに「男なのに・・・」「女だから・・・」等の考え方をしたことがないと言う人以外は是非とも読んでみてください。

走ることについて語るときに僕の語ること

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 聴いたことのないジャンルの音楽を聴きだすように、新しいことをするということは何らかの契機みたいなものが必要な時もありますし、そうでない時もあります。そういう時って何気なくという言葉が一番適切で後者のようなタイミングで何かを始めて、自分が合う合わないの判断をそこでして、合うならのめり込むし、合わないなら通りすぎていく。

  二月頃に兄と二人でテレビを見ていたらホノルルマラソンを紹介しており、大々的にそこで紹介されていたホノルルの景色が本当に素晴らしくって何気なく、ふとした会話の弾みのように「ホノルルマラソンって綺麗やね。走ってみたい。」と言った折に兄の提案で五月に長距離マラソンに出ることになりました。

これまでの人生で運動らしい運動をしたような経験もなく、さらに見た目もさることながらインドア以外何ものでもない私がマラソンを始める、ましてやそう多くの人が進んで出たがらない長距離マラソンに参加するなんてことを一体誰が想像できたでしょうか。結果だけを言うならば、ハーフマラソンに参加してきました。

 走りだした頃は、人生の不摂生が祟ってか2kmも走りこんだら心臓は16ビートを刻み呼吸は荒々しい排気を吐き出すしかありませんでした。けれども人間の体というのは不思議なもので騙し騙しでも走っていると徐々に鍛え上げられていき二週間も経てば人並みに5kmを走っても余力を残すほどに。それからは習慣的に、二日に一回のペースで走って、時間をかけてハーフマラソンへの調整をしていきました。

 私が走る目的なんていうのは大したことではなくて、健康になりたい、今のうちに体をつくっておきたい、等の立派なものではなく単純にホノルルマラソンが綺麗だから走れたらいいなと思っているだけです。その過程で何らかのマラソン大会に参加するだけであって、その辺りは適当にやっています。あえて何かを言うならば、仕事をしだしたということが関係しており、曲りなりにも仕事をしていたら自分の無能さに直面し意味もなく一人で心の中に鬱憤を蓄積してしまい、いわば心と体のバランスが取りづらくなってしまいストレスを抱え込む。そのストレスを解消するために体も何らかの方法で、今回は走ることで、ダメージを与えて心と等しいぐらいにまで追い込むことで均衡を保とうとしている。といえばそれらしいのですが単純な所で気分転換を兼ねてと一応の目標を立ててというところです。

 

 走りだす前から村上春樹さんの著作「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでいたのですが、走る事というか体を動かす事から無縁だった私には遠い世界の話で、数頁に目を通してそれきりになってしまいました。今回ハーフマラソンを走った事で改めて本を開いてみると、まだまだ遠いけれども書いてあることに共感や理解を示せるようになりました。感覚的であるとか体感的であるものを言葉にする作業は本人にとってはある種の確認作業にもなり、反復でもあり、それを読んだ他の人には体験の伴わない言葉である限り、到底理解できないものに成り下がってしまうんじゃないのかなと思います。興味のない分野の評論やエッセイを読んでも、まったく共感できないもんですよね。

けれども曲りなりにも走ることをしった私には非常に面白いエッセイに成り上がりました。これは当人の問題であって著作にはまったくもって関係のない話です。

 

 村上春樹さんは、彼自身走る事と書く事はそう遠くないものであると言う風に仰っております。小説家にとって必要な技能と、ランナーにとって必要な技能を構築していくのは同じものでもあると仰っております。私自身物書きではないのですが、そう言われてみるとそうかもしれないなと思いながら読み進めて、なんとなく走ることを続けてみたいなとも思わせてくれます。

 よもやま話になりますが、ある一つの事を習熟する過程というのは辿る道筋が違えど、似たようなものであり応用の効くものなのではないでしょうか。例えば私の場合、人並みに誇る事が出来るのはギターが弾けるということですが、これにあたっても基礎を築き、理論を構築して、それらを繋ぎ合わせて技術を向上させる。細かい事はよくわかりませんが(ロールモデルを見つけるとか、色々ありますが)簡単に言ってしまえばこういうことなのです。世の中の大体の事を習熟する場合にはこういう過程を当てはめることが出来ると思うので、そう遠からずともであり、また一見関係の無い事でも、物書きであることとランナーであることのように、実は過程自体は近い距離にあることもあるんでしょう。

 

 どちらにせよ、進んで自分の体を痛めつけるような行為には、ある種の狂気性のようなものであり、上で書いたように、どこかで心と体の損傷具合のバランスを取ろうとしているのかもしれないと思わせる内容でした。今回の私が学んだ点というのは、興味のない分野に興味を持てるようになるには、まずやってみるしかないということですかね。こんなことって当たり前のことなんですかね。